ヨハネの福音書1章1節~8節、19節~34節
マタイの福音書は、イエスの系図から始められています。それは、マタイがユダヤ人に対して、彼イエスが救い主であることを証明するために書かれた福音書だからです。ユダヤ人にとって系図はその人が誰であるかを表す大切なものでした。また、旧約聖書の時代から、救い主はダビデの家系から誕生すると言い伝えられていました。それゆえ、マタイは、イエスの系図を示すことによって、イエス・キリストこそ旧約聖書に約束された救い主であると、ユダヤ人に訴えているのです。
ルカによる福音書は、ローマ政府の高官であるテオフィロという人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるために書かれた福音書です。ルカは、イエス・キリストの誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生から書き始めています。それは、救い主の誕生がイエスの誕生から始まるのではなく、神の計画は、その前、バプテスマのヨハネの誕生からすでに、始められていたことを示す目的があったものと思われます。救い主の誕生は、旧約聖書の時代から預言されていましたが、その中でも、預言者イザヤが示したメシヤ預言は有名です。
マルコの福音書1章2節3節「預言者イザヤの書にこのように書かれている『見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」人々は、救い主を待ちわびると共に、救い主の前に遣わされる預言者をも待ち望んでいたのです。
マルコの福音書は、そのイザヤ書の預言のことばから始められ、初めにバプテスマのヨハネの働きを紹介しています。ヨハネの福音書もバプテスマのヨハネが神から遣わされ、光(イエス・キリスト)を証しするために来たと伝えています。バプテスマのヨハネこそ、預言者イザヤが預言した、救い主の前に道を整える者でした。では、彼はどのようにして主の前に道を整える働きをしたのでしょうか。
彼の働きは、ユダヤ人に「悔い改め」を求め、バプテスマ(洗礼)を受けるように訴えることでした。当時のユダヤ教指導者たちは、ユダヤ人はアブラハムの子孫だから、罪は無いと教えていました。また、律法学者たちは、ユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼び、彼らを罪人と定め、ユダヤ人が彼らと親しく交わることを禁じました。しかし、異邦人が自分の罪を認めてユダヤ教に改宗する場合、その罪を清める目的で、異邦人に対してだけ、律法学者たちはバプテスマ洗礼を受けるように教えていたのです。しかし、バプテスマのヨハネは、異邦人だけではなく、ユダヤ人にも罪があることを指摘し、洗礼を受けなければ救われない、天の御国に入ることはできないと教えたのです。彼の教えは、当時のユダヤ人社会に大きな衝撃を与えました。多くのユダヤ人が彼の説教を聞き、自分の罪が示され、ヨルダン川に集まり、彼から洗礼を受けたのです。彼の一番の功績は、ユダヤ人に罪を認めさせ、バプテスマ洗礼を受けさせたことにありました。イエス・キリストも宣教の初めに「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1章15節)と言われました。預言者イザヤが預言した「主の通られる道をまっすぐにする。」とは、人々を悔い改めさせ、神に立ち返らせることだったのです。
悔い改めるとは、自分の罪を認めるだけではありません。自分の罪を認め、方向を転換し正しい生き方に立ち返ることを意味しています。当時のユダヤ人は律法学者たちの教えにより、自分たちはアブラハムの子孫であるから、神に認められた特別な民だと信じていました。それを「選民意識」と呼びます。しかし、バプテスマのヨハネは、アブラハムの子孫でも罪があり、悔い改めて異邦人と同じようにバプテスマ(洗礼)を受けなければ天の御国に入ることはできないと教えたのです。律法学者たちはその教えに反発しましたが、民衆はすぐに自分の罪に気づき、バプテスマのヨハネのもとに集まり洗礼を受けたのです。
では、私たちにとって悔い改めて洗礼を受けるとはどういう意味があるのでしょうか。ルカの福音書15章に、イエスが語られた有名な放蕩息子のお話があります。ある人に二人の息子がいました。弟息子は父に財産を要求し、その財産を受け取ると遠くへと旅立ちました。そこで、彼は父からもらった財産を使い果たし、食べるにも困る生活へと落ちぶれてしまいました。そこで、彼は父のもとで豊かに暮らしていたことを思い出し、父の家に帰る決心をしたのです。ここで彼はこのように言っています。ルカの福音書15章18節19節「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」ここで彼が言っている罪とは何のことでしょうか。彼は、盗みをしたわけでもなく、人を傷つけたわけでもありません。ここで彼が言っている罪とは、父から離れ、自分勝手な生き方をしたことを指しています。つまり、彼は自分の選んだ道、自分が歩んできた道が間違っていたことを認め、父の家に帰り、もう一度、父と共に暮らす生き方に戻る決心をしたということです。それが、悔い改めで、方向転換するということです。
これは、イエスが群衆に語られたたとえ話です。しかし、私たちの人生は、まさに、この放蕩息子の人生と同じではないでしょうか。神は私たちに命を与えてくださいました。しかし、私たちはそのことを知らず、自分勝手に、自分の欲望に従って生きてきました。たとえこの息子のように、生活が破綻していないとしても。私たちは神から離れ幸いな人生を歩むことが出来るでしょうか。人は裸で生まれ、最後は死を迎え神の前に立つことになります。誰も、この死から逃れることはできません。聖書は、最後の審判があり、罪を犯した者はその罪に従って神に裁かれると記されています。また、イエスを神の子と信じる者は、その罪が赦され天の御国で神と共に永遠に暮らすと記されています。イエス・キリストはそのために人として生まれ、十字架の上でその尊いいのちを犠牲にされたのです。私たちクリスチャンは罪ない者になるのではなく、罪赦された者として天の御国に迎えられるのです。先程の、放蕩息子のたとえ話に戻れば、息子より先に、父親が息子を見つけて走り寄り、彼を抱きしめ口づけをしたとあります。これは、イエスが神との和解を表した箇所で、私たちが悔い改め、神のもとに立ち返るとき、神が私たちに近づいて、私たちの罪を赦し、私たちと、もう一度親しい関係を回復することを表した箇所です。
イエスの処女降誕と十字架の死と復活は一つの繋がった出来事です。イエスは神の子ゆえに処女マリアから生まれ、イエスは私たちを罪より救うために十字架で死なれました。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活され、天に昇って行かれたのです。そのイエスを神の子と信じる者の罪は赦されると聖書にあります。私たちが罪から救われるために、一番最初に必要なことが、自分の罪を認めて悔い改めることです。そして、イエスの名によってバプテスマ(洗礼)を受けることです。イエス・キリストの誕生のお話は、単なる二千年前の出来事ではありません。今生きて生活している私たちに対する神からのメッセージです。あなたは、自分の罪を認めますか。それでは、その罪の問題をどのように解決しますか。ユダヤ人のように神の戒めを守り正しい人間になる道を選びますか。それとも、私たちを罪の刑罰から救うために生まれて下さったイエス・キリストを神の子と信じる信仰によって救われる道を選びますか。私たちはその選択を生きている間にしなければならないのです。