主は私の羊飼い

詩篇23篇1節~6節

詩篇には、タイトルに「ダビデの賛歌」「ダビデによる」と書かれたものが幾つもあります。しかし、それら全てがダビデの作というわけではありません。ダビデのために、ダビデを思って作られた詩篇も含まれています。しかし、詩篇23篇については、ダビデによる作品ということが出来ます。ダビデはイスラエルの国の二番目の王になりましたが、初めから王族に生まれたわけではありません。彼の家系は羊飼いで、ダビデは小さい頃より、羊と共に生活していました。それゆえ、羊のことをよく知っており、羊飼いがどのような仕事をするのかもよく知っていました。それゆえ、この詩篇23篇は、羊飼いの経験のあるダビデだからこそ書くことが出来た詩篇だと言えます。

羊飼いという仕事は、イスラエルの民の中で古くからおこなわれていた仕事です。エジプトから逃げ出したモーセも荒野で40年羊飼いとして生活をしました。羊飼いは、羊を牧草地に導き、水のある所に連れて行くのが仕事です。羊は視力が弱く、牧草地や水のある所を探すのには助けが必要です。良い羊飼いは、どこに牧草地があり、どこに行けば湧き水があるのかを熟知しています。1節~3節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。」ダビデはこの詩篇の中で、自分を羊にたとえ、神を羊飼いにたとえています。イエスは群衆に、神はすべてを知っておられ、私たちの髪の毛の数さえ知っておられると説明しました。それゆえ、私たちはダビデと同じように、乏しいことはありません。神は私達の必要を満たして下さるお方です。私たちは明日のことがどうなるかわからない者です。しかし、主はすべてを知った上で、私たちの歩む道を示してくださいます。それゆえ、私たちは魂をも委ね、こころに平安を持つことが出来るのです。

 4節「たとえ 死の影の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。」ダビデはすぐにイスラエルの王になったわけではありません。初めに神が任命した王はサウルという人物でした。しかし、彼は神のことばに従わなかったゆえに、神に退けられてしまいました。そして、神はダビデを新しい王に選びました。しかし、依然としてサウルの王位は変わりませんでした。王位を奪われると考えたサウル王はダビデを恐れ、彼を反逆者として殺そうと命を狙いました。ダビデは自分の命を守るために、サウルの前から逃げ回らなければなりませんでした。ダビデには何度も危ない場面がありましたが、神はそのたびにサウル王の手からダビデを守りました。その体験が「死の影の谷を歩むとしても 私はわざわいをおそれません。」という告白を導き出したのです。

 5節「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。

私の杯は あふれています。」この個所は、お客を招く主人と招きを受ける客の関係が表されています。イスラエルの国では、旅人をもてなすのは義人の行いとされていました。ここで「私の敵」が誰を指すのかはわかりません。作者がダビデなら、サウル王を指しているのかも知れません。客の頭に香油を注ぐことは最高のもてなしとされていました。杯があふれてというのは、主人のもてなしが豊かであることを表しています。

 6節「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」私のいのちの日の限りとは、私が生きている間という意味です。そして、私たちがこの地上に生きている間ずっと、神のいつくしみと恵みは絶えることがありません。「主の家」とは、「幕屋か神殿」を指していると思われます。私たちにとっては、「主ご自身」という意味にとれるでしょう。

この詩篇のすばらしいところは、「羊飼いと羊」の関係を神と自分に当てはめて描いていることです。イスラエルの民にとって神は偉大なお方です。その神が自分と共におられるとは、信じがたいことです。しかし、ダビデは自分の経験を通して、神が共におられることを信じるに至ったのです。イエス・キリストは神の子として、父(神)と自分が一つであることを弟子たちに教えました。それだけではなく、神はイエスを神の子と信じる者と共におられると約束されたのです。キリスト教で大事なことは、神との直接親しい関係が回復されることです。そのために、イエス・キリストは人として生まれ、十字架の上でご自分の命を犠牲にされました。日本の仏教は先祖礼拝の影響が強く、家自体と仏教が結びついています。しかし、キリスト教は個人と神との関係が大切で、イエスを神の子と信じる信仰によって、神の子と認められる宗教です。親がクリスチャンでも、自然に子がクリスチャンになるわけではありません。マタイの福音書16章13節で「イエスは弟子たちに『人々は人の子をだれだと言っていますか』とお尋ねになった。」とあります。14節「彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだという人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。』」と答えました。15節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」17節「すると、イエスは彼に答えられた。『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。』」ここで大切なことは、ペテロがイエスを「生ける神の子キリストです。」と告白したことです。そして、それがペテロの力(知恵)ではなく、父(神)の力によるということです。私たちが神との親しい関係を回復するためには、ペテロのようにイエスを生ける神の子キリストと信仰告白をすることが必要です。また、その力は神より与えられるということです。ダビデは神に選ばれた特別な人でした。新約聖書以降の時代は恵みの時代と言われます。なぜなら、イエス・キリストを神の子と信じるなら、だれでも罪が赦され神との親しい関係を回復することが出来るからです。ルカの福音書11章9節~13節「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」重要なことは、私たちが真剣に神を求めるかどうかです。神を求める者には神が信じる力を与えてくださいます。しかも、ダビデは、羊飼いと羊の関係でしたが、私たちは、イエス・キリストを通して父と子の親しい関係が与えられるのです。