神を待ち望め

詩篇42篇1節~11節

詩篇42篇は「嘆きの詩」と呼ばれる詩篇です。イスラエルの国は、ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれました。そして、紀元前722年に北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前586年にバビロニアに滅ぼされました。その時に、城壁と神殿も壊されてしまいました。また、南ユダ王国の中で、王族や貴族、技術者など役に立つ人間は捕囚(奴隷)として強制的にバビロニアに移住させられました。これをバビロン捕囚と呼びます。この詩篇42篇の作者は、その時にバビロニアに捕囚として連れてこられた人ではないかと思われます。

 1節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」イスラエルの国は、岩場や坂が多く、日本のように水が豊富にある国ではありません。また、一年を通して雨期と乾期があります。ヨルダン川は雨期には川幅が広がり大きな川となりますが、乾期には小さな流れになってしまいます。列王記を見ると、乾期には干ばつがひどく、飢饉になることも度々あったようです。詩篇の作者は、鹿が水を求めて谷底に下りて行く様を、自分が神を求める姿にたとえています。南ユダ王国にいた時には、自由に神殿に行き神を礼拝することが出来ました。しかし、今では神殿は壊され、異国の地にあって、以前のように神を礼拝することが困難になってしまいました。

神学校に入学したとき、「魂の飢え渇き」を経験したことがあります。神学校では毎日聖書の学びの時間があります。その時に使われるテキストは「聖書」です。そこでは聖書を色々な角度から学びます。また、試験もあります。それゆえ、聖書が学問の対象となり、神のことばというよりも、試験勉強のために聖書を読むようになり、聖書を読んでも何のために読むのか分からなくなりました。また、無理して聖書を読んでも砂をかむようなもので、神の恵みのことばとして受け止めることが出来ず、聖書が読めなくなってしまったのです。それが半年ほど続き苦しい時期を過ごしました。この詩篇の記者も、神を信じていても、周りの状況は苦しみばかりで、どう祈ったらよいかわからない、そのような状況ではなかったでしょうか。

 2節「私のたましいは 神を 生ける神を求めて 渇いています。 いつになれば 私は行って 神の御前に出られるのでしょうか。」詩篇の記者は、もう一度神の恵みによって国が建て直され、以前のように神殿で礼拝が出来ることを待ち望んでいます。エレミヤは国が滅んで70年後に国が再建されることを預言しました。しかし、だれがその言葉を信じることが出来たでしょうか。当時は城壁も神殿も壊され廃墟のままです。しかし、エレミヤに与えられた神のことばの通り、70年後には、国が再建され神殿も建て直されたのです。詩篇の作者はこの詩篇の中で二度「神を待ち望め」という言葉を使っています。私たちの信仰生活の中で、「神を待ち望む」ことは大切なことです。多くの人々は自分の願いを叶える神々を求めています。しかし、キリスト教の祈りはそうではありません。クリスチャンの願いは、自分の目的を達成することではなく、神の御心が成ることを求めます。そのために、私たちは神の時を待たなければなりません。旧約聖書を見るならば、神の時を待つことが出来ずに失敗した人たちのことが記されています。へブル人の手紙11章1節「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。現状から未来を見るのではなく、神の約束を信じて待つとき、神のことばが真実であることを信じることが出来るのです。

 3節「昼も夜も 私の涙が 私の食べ物でした。 『お前の神はどこにいるのか』と 人が絶えず私に言う間。」「昼も夜も私の涙が私の食べ物でした」とは、一日中苦しみがあることを表しています。当時、国が栄えるのは神の祝福と考えられていました。それゆえ、王は神々を祀り神殿を建設しました。また、国と国の戦いは、神と神の戦いでもあり、戦いに勝利した国の神々は褒めたたえられ、負けた国の神々は滅ぼされました。南ユダ王国の場合は、彼らの不信仰のゆえに国が滅ぼされたのですが、バビロニアの人は、自分たちの信じる神々によって勝利したと受け取ったでしょう。それゆえ、彼らは南ユダ王国の人々に対して、「おまえの神はどこにいるのか」と彼らの信じるイスラエルの神を馬鹿にしたのです。そのことは彼らにとって耐えられない屈辱でした。

 11節「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。 なぜ 私のうちで思い乱れているのか。 神を待ち望め。 私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を。」

私たちは神を信じていても、病気にもなれば、苦しみや悲しみもあります。しかし、私たちが現状だけを見ているなら、苦しみは苦しみ、悲しみは悲しみで終わってしまいます。苦しみや悲しみの時こそ、神を見上げる時です。そのために、神のことばである聖書が与えられているのです。旧約聖書のアブラハムやモーセ、ダビデを見ると、彼らにも苦しみや悲しみや問題がありました。しかし、彼らの人生はどうだったでしょうか。決して苦しみや悲しみで終わってはいません。神が共におられるとはそういうことです。ダビデと共におられた神は、私たちの神と同じ神です。それを信じる時、私たちの心に希望と平安をもたらします。信仰とはそういうものです。

ローマ人への手紙8章35節「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」37節「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」38節39節「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

「神を待ち望め」これが、苦しみの時に神が私たちに語りかけてくださる神のことばです。