ヨハネの福音書2章1節~11節
今日からしばらく、イエスがなされた「しるし(奇跡)」の意味について考えます。聖書に記されたイエスの奇跡には意味があります。ただ、イエス・キリストには人知を超えた不思議な力があるというだけではなく、それは、救い主である証拠を含んだ奇跡であるということです。不思議な力だけであるなら、聖書以外にもイエスはもっと多くの奇跡を行ったことでしょう。しかし、聖書はイエスが神の子、救い主であることを証明するために書かれました。それゆえ、聖書に登場する一つひとつの奇跡には、それぞれ大切な意味が含まれています。特に、使徒ヨハネはカナでの結婚式でイエスが水をぶどう酒に変えた奇蹟を、ヨハネの福音書2章11節「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。」と記しています。私はこの箇所を読んだ時、なぜ、水をぶどう酒に変えた奇跡が最初の奇跡で、ご自分の栄光を現わすような奇跡だったのか意味がわかりませんでした。もっと大きなしるし(奇跡)をイエスは行っているからです。しかし、神学校で聖書をより深く学んだ時、その意味をしりました。今日はこの驚くべきイエスの最初のしるしについて学びます。
1、カナの結婚式での出来事
2章1節「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。」とあります。「それから三日目に」とは、ヨハネの福音書1章45節~51節のナタナエルとイエスの出会いから三日目ということです。また、ヨハネの福音書21章の2節にはナタナエルがガリラヤのカナの出身であると記されています。この婚礼と関係があったのかもしれません。また、この婚礼に「イエスの母がいた」と記されています。全体の内容から察すると、この時のイエスの母マリアはお客としてではなく、世話役として参加していたのではないかと思われます。その証拠に3節「ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った。」とあります。ゲストとして招かれていたなら、ぶどう酒が無くなったことを気にすることはなかったでしょう。また、気が付くこともなかったでしょう。イスラエルの婚礼は一週間続きます。どれだけぶどう酒が必要かは、参加者の数によって変わります。それゆえ、宴会の世話役は常にぶどう酒が無くならないように気を配らなければなりませんでした。また、イエスの母が宴会の世話役をするぐらいですから、この婚礼はイエスの家と関係がある婚礼ではなかったかと思います。それで、イエスも弟子たちも婚礼に招かれたのでしょう。
2、イエスと母マリアとの会話
イエスの母が心配していたようにぶどう酒が無くなってしまいました。世話役としては大変な事態です。そこで、イエスの母マリアはイエスに相談する思いで、「ぶどう酒がありません」と告げたのではないでしょうか。この時、イエスの母マリアはイエスに対して奇跡を期待したわけではないと思います。どこからかぶどう酒を調達してきてほしいという思いではなかったでしょうか。4節「すると、イエスは母に言われた。『女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来てはいません。』」イエスのこの母に対することばは冷たく感じます。しかし、ある聖書の解説者は、イエスはすでにメシヤ(救い主)としての働きを始めていたので、この時、イエスは母マリアに対して、子としてではなく、メシヤ(救い主)として対応し、そこで他人行儀なことばをあえて使われたと説明しています。
また、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。ヨハネの福音書の中で、イエスが「わたしの時」と言われる場合、十字架の死のことを表しています。ここでも、イエスはまだ、神の定められたときではないと言われたのです。6節「そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石のみずがめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。」とあります。一メトレテスが四十リットルとありますから、三メトレテスでは120リットルの水が入る、大きな水がめであることがわかります。このイエスの奇跡「水をぶどう酒に変える」の場面で大切な事は、その水がただの飲み水ではなく、「ユダヤ人のきよめの水」をイエスがぶどう酒に変えたことにあります。ユダヤ人は手を洗ってからでなければ、食事をしてはいけないという昔からのしきたりがありました。ユダヤ人たちはその外にも多くの戒めを守っていました。また、彼らは汚れに対して敏感で、特に気を配っていました。外から帰ってきたら水を浴びなければ食事をしないなどもあります。それだけ、彼らは自分たちが神から選ばれた特別な民であることを意識していたのです。また、彼らは外国人を異邦人と呼び、彼らを汚れた民として交わりを禁じていました。自分たちは聖い民との自覚があったからです。
3、きよめの水をぶどう酒に変えた意味
この婚礼においてイエスは「ユダヤ人のきよめの水」をぶどう酒に変えました。実は、この「きよめの水」はユダヤ教を表し、「ぶどう酒」は十字架で流されるイエスの血潮を表していたのです。ここでイエスは、ユダヤ教のきよめの儀式ではなく、ご自分の十字架の死と復活によって、罪を聖め、救いを完成させることをあらかじめ示されたのです。ヨハネはこの婚礼の時には、そのことに気が付きませんでした。彼はこのヨハネの福音書を晩年になって、イエスのなされたことを回想してヨハネの福音書を書いたと言われています。つまり、ヨハネはイエスの生涯を書き上げる時、カナの結婚式のことを思い出し、イエスの十字架の死と水をぶどう酒に変えた出来事が一つに繋がったのです。そこでヨハネはヨハネの福音書の2章で行われたカナでの婚礼の出来事「水をぶどう酒」に変えるという奇跡を11節「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。」と記したのです。それゆえこの奇蹟は、イエスが特別な力で水をぶどう酒に変えたという不思議な出来事ではなく、イエスが後に行う十字架と復活を予感させる特別な奇跡だったのです。
ユダヤ教のきよめの水では人の汚れをきよめることはできませんでした。それゆえ、イエス・キリストは、私たちの罪の問題を解決するために、人として誕生されました。そして、十字架の上でご自分のいのちをささげ、死より復活されたことによって私たちの救いを完成されました。人の力ではどんなに努力しても、神の前で聖くなることはできません。罪とはそれほど恐ろしいものです。神の子のいのちが犠牲にされなければ赦されない程、私たちの罪は神の前に積み上げられているのです。それゆえ、神は私たち罪人を救うためにひとり子イエス・キリストのいのちを犠牲にされました。イエス・キリストは一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとして十字架でいのちを犠牲にされました。もし、罪が身を洗って聖くなれるなら、イエス・キリストは人として生まれることもなく、十字架で死ぬこともなかったでしょう。しかし、イエス・キリストは歴史的事実として、この地上に生まれ、十字架に付けられて殺されました。ユダヤ人たちも、今の多くの人々も、神の子が罪人の代わりに十字架に付けられて殺されるなど、信じることができません。しかし、神が愛のお方ならば、可能なことです。人間でも自分の子のために親は自分のいのちを犠牲にします。神は愛だからこそ、イエス・キリストは生まれ、十字架で死なれたのです。聖書はそれを神の愛の表れであるとしるしています。神の愛に感謝します。