人となられた神の子

ピリピ2章6節~11節

マルコの福音書14章55節から祭司長、パリサイ人、長老たちによりイエスが裁判にかけられた場面が描かれています。この時、偽証人やイエスに不利な証言をする人たちがいましたが、イエスは一言も反論しませんでした。また、大祭司はイエスを罪に定めようとしましたが、明確に罪に定めることが出来ませんでした。そこで、大祭司はイエスに言いました。60節「そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。』」61節「しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。『おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。』」62節「そこでイエスは言われた。『わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。』」63節64節「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。」これは、イエスが罪に定められ死刑の判決を受けた場面です。イエスが死刑の判決を受けたのは、ご自分が神の子キリスト(メシヤ)である事を認めたからです。ユダヤ人にとって、神は唯一で神聖な存在です。ユダヤ教では、罪ある人間が自分を神と宣言することは、神を冒涜することで、死刑の判決を受けることが定められていました。日本人は多神教で汎神論を信じる国民です。「汎神論」とは、動物や自然、人間さえも神に祭り上げて崇めることです。ですから私たち日本人は、なぜ、イエスが自分を神と認めたことで、大祭司やユダヤ人が怒り、イエスを死刑に定めたのか、その感情(怒り)を理解できません。そこには文化や宗教の違いがあります。国民性の違いと言ってもいいかもしれません。

使徒の働きの時代、教会は世界中に広がり、クリスチャンの人口も増えていきました。しかし、教会が増えるにしたがって、「異端」の教え、つまり間違った教えも増えて行きました。特に教会はギリシャ哲学の影響を受け、深刻な状況に陥りました。ギリシャ哲学には「二元論」という考えがあり、霊的なことは善、肉体的なことを悪と決めつけ、物事を二つに分けて考えていました。この考えが教会に入り込み、「グノーシス」という異端のグループを生み出したのです。彼らは神が人として生まれたことを否定しました。彼らは、神がイエスに宿り、十字架につけられる前にイエスから離れたと考えました。彼らは霊的な存在である神が人として肉体を持って生まれたことを否定したのです。神が人として生まれた(受肉)ことを否定すれば、キリスト教がキリスト教で無くなってしまいます。パウロはピリピ人への手紙の中でこのように教えています。ピリピ人への手紙2章6節~8節「キリストは、神の姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現われ、自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」神はユダヤ人が考えるように、栄光の姿を持っておられます。ユダヤ人たちには、神がその栄光の姿を捨てて、罪人である人間と同じ姿になるなど考えられないことでした。ところが、神はその栄光の姿を捨てて、私たちと同じ肉体を持って生まれてくださったのです。なぜ、神は栄光の姿を捨てて私たちと同じ肉体を持って生まれてくださったのでしょうか。それは私たちの罪の身代わりとして死ぬためでした。霊的な神の姿では死ぬことはできません。また、イエスは十字架の死にまで従いました。イエスは神の姿だけではなく、人間としての尊厳も捨てて、無実でありながら、罪人として汚名をも受けられました。イエスはなぜ、そこまでへりくだって死を身に負わなければならなかったのでしょうか。それは、すべての人の罪を背負うためでした。イエスが私たちと同じ肉体を持って生まれたということは、あの十字架の苦しみをそのまま受けられたということです。ユダヤ人やギリシャの哲学者たちには、神聖なる神が、人間を救うために、栄光の姿を捨て、罪人の汚名を受けて十字架で死ぬなど考えられないことでした。私たち日本人はどうでしょうか。人や動物を神のように崇める国民です。人が神になることも、神が人になることも、さほど気にしないのではないでしょうか。神とはどのような存在でしょうか。一神教を信じるユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって神とは絶大な存在です。神は創造主で私たちは被造物(神によって創られた者)です。その違いは大きく、決して交わることはありません。その神があえてご自分の栄光の姿を捨て、最もみじめな姿で十字架につけられて殺されました。それを考える時、神が私たちに与えて下さる「救い」がどれほど大切なものであるかわかります。確かに「救い」はただで(無代価で)、求める者には誰にでも与えられる賜物(プレゼント)です。しかし、そのために神が払われた代価を想像するとき、私たちに、どれほど、神への感謝の気持ちがわき起こってくるでしょう。神は、私たちに価値があるとか、正しいからではなく、罪人である私たちの身代わりとして、ご自分の栄光の姿を捨て、十字架での死を引き受けてくださったのです。ここに、私たちが正しく聖書を学ばなければならない理由があります。悪魔は、何とか私たちの目をごまかして、神の栄光の姿からそらせ、人間的な知恵に基づく間違った神の姿を植え付けようとします。それが異端の働きです。私たちはそのような姿に騙されないようにしなければなりません。

イエスは弟子たちにこのように言われました。マタイの福音書10章38節「自分の十字架を負って私に従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」ここで言われている「十字架」とは、生まれつきの障がいや、生まれついた境遇の事ではありません。この「十字架」とは、神によって与えられた「使命」を言います。神は私たちに、何の計画もなく、意味もなく、目的もなく命を与えられたわけではありません。神は私たち一人一人に「使命」、つまり役割を与えられました。その「使命」は人によって違います。人によっては、大きくて負いきれないような十字架であるかもしれません。しかし、イエスは神の栄光の姿を捨てて人となり、私たちを罪から救うために十字架でいのちを犠牲にされました。イエスはゲツセマネの園で、汗が血のように流れるほど祈ったとあります。そして、最後には父なる神の御心に従って十字架の道を歩まれたのです。そのイエスが私たちに、自分の十字架を背負ってわたしについて来なさいと言われました。私たちはその言葉にどのように応えるべきでしょうか。イースターを前に、今日から受難週が始まります。イエスの十字架の姿を仰ぎ、一週間、考えましょう。