コロサイ人への手紙2章8節~12節
伝道者パウロが各教会に書き送った手紙から学んでおります。今日は、コロサイの教会に送られた手紙から学びます。今まで学んできたパウロによる手紙は、パウロが直接関わって建てられた教会に送られたものでした。しかし、コロサイの教会はパウロではなくエパフラスによって建てられた教会です。パウロは第三回伝道旅行のさなかに約三年間エペソに留まり伝道しました。このとき、コロサイを含む近隣の小アジアの町々にも伝道の成果が波及しました。その時に救われたのがエパフラスで、パウロがエペソを離れた後、彼がこの教会に深く関わり建てあげられたものと考えられます。
また、パウロがエペソを離れた後、ユダヤ教やギリシャ哲学の影響を受けた異端(キリスト教の間違った教え)が教会に入り込んだため、この問題を解決するために、エパフラスはローマの牢獄に捕らわれていたパウロを訪問しました。しかし、彼もまた牢に入れられたため、パウロはティキコに手紙を託してコロサイの教会に遣わしたのです。異端は昔からあり、今に至るまで様々な問題を起しています。私たちはそのような間違った教えに対してどのように対応したらよいでしょうか。
まず、私たちは正しい聖書の教えを学び、それを土台として異端の教えの何が間違っているのかを見抜かなければなりません。私たちは毎週礼拝の中で、使徒信条を告白しています。使徒信条は信仰の土台で、カトリック教会、プロテスタント教会が共に信じている信仰基準です。この基準から外れた教えやこの基準のことばを否定する教えはすべて異端の教えということが出来ます。その中に、イエスの神性、処女降誕、十字架の死と復活が含まれています。
コロサイ人への手紙2章8節「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」とあります。当時、グノーシスと呼ばれる異端が問題となっていました。彼らは二元論という教えを信じ、霊的なものは善で肉的なもの(肉体)は悪と二つに分けて考えました。それゆえ、彼らは神の子イエス・キリストが肉体を持って(人として)生まれたことを否定しました。善(霊)である神が悪である肉体を持って生まれたという教えを受け入れることが出来なかったのです。そこで、彼らは、霊である神が人間イエスに宿って奇跡を行い、十字架につけられ殺される前に、人間イエスから離れ天に昇って行かれたと教えたのです。この教えは、イエス・キリストの処女降誕と復活を否定する教えであり、明らかに間違った教えです。
イエス・キリストの処女降誕と死からの復活は、今でも人間の知恵では理解できないことです。どのようにして死から三日目に復活することが出来たのか。人間の知恵では説明できないことです。ある人は、マリアが他の男性と関係を結び、それを隠すために、聖霊によって身ごもったとヨセフに噓をついたと考えました。また、イエスは死んだのではなく死んだように見えただけで、墓に納められた後で意識を取り戻して弟子たちに自分がよみがえったと伝えたと考える人もいます。イエスの処女降誕と復活は神の御業ですから、私たちはそれがどのようになされたのかを理解することはできません。しかし、私たちの罪の問題を解決するためには、牛や羊の犠牲ではなく、罪の無い人の命が犠牲としてささげられなければなりません。聖書は罪の無い人は誰もいないと証言しています。罪がないお方は神しかおられません。しかし、神は永遠の存在ですから、人の罪の身代わりとして死ぬことが出来ません。そのために、神はご自身の栄光の姿を捨てて、一人の人間として肉体を持って生まれてくださったのです。それ以外に私たちの罪の問題を解決することはできませんでした。もし、ほかに方法があったとしたら、イエス・キリストは処女のマリアから生まれることはなかったでしょう。また、イエスが私たちと同じように、人間であるマリアとヨセフによって生まれた者であるなら、イエスにも私たちと同じ原罪(罪を犯そうとする性質)がある事になります。しかし、イエスは神である本質は捨てることなく、肉体を持って生まれる必要がありました。そのためには、聖霊によってマリアから生まれるしか方法はなかったのです。それゆえ、生まれたこどもイエスは、神の性質と人の性質を兼ね備えた人(二性一人格)として誕生されたのです。私たちは処女のマリアにどのような方法で男の子が宿ったのかは知りません。しかし、私たちの罪の問題を解決するためには、どうしても、神が肉体を持って生まれなければなりませんでした。私たちは、なぜ神が罪人である人間のためにそのような大きな犠牲を払う必要がったのかと考えます。聖書は「神は愛である」と教えています。神の愛は私たちの想像を超えて信じられないほどの大きさを持っています。それゆえ、神は私たちが自分の罪のゆえに罰せられることを見過ごすことが出来ずに、ご自分のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架で命を取られたのです。また、イエス・キリストは、無実でありながら、私たちの罪の問題を解決するために十字架で苦しみを負われ、ご自分の命を犠牲にされたのです。さらに、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活して天に昇って行かれました。これは、すべて人間の知恵の限界を超えた出来事です。それゆえ、聖書はこれらの出来事を理解するように教えているのではなく、信じなさいと教えています。理解すること信じることには大きな違いがあります。理解することは勉強や研究によって達成できます。しかし、信じるとは神が愛であることを受け入れ、私たちのために大きな御業をされたことを受け入れるということです。また、神の人格に信頼を置き、神の約束を疑わないとです。そのように、信じるとは、努力して学んで得られることではありません。誰でも神によって信じる力が与えられなければ、イエスを神の子と信じることはできないのです。