神の姿を捨てた神の子イエス

ピリピ人への手紙2章5節~11節

ピリピの教会は、パウロの第二回伝道旅行の時に建てられた教会です。パウロの伝道の方法は、通常はまず、ユダヤ人の会堂で始められます。しかし、ピリピの町はユダヤ人が少なく会堂が無かったのか、会堂での働きが記されていません。その代わり、彼は祈りの場があると思われる川岸に行き、そこに集まって来た女性たちに話をしたとあります。そこで紫布の商人リディアという女性が熱心にパウロの話を聞いていました。神は彼女の心を開いてパウロの語ることに心を留めるようにされたとあります。そして、彼女とその家族が洗礼を受けました。

また、この地方に女性の占い師によって利益を得ている人々がいました。ところが、その女性がパウロたちの後を、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫びながらついて来ました。そこで、パウロはこの女性からイエスの名によって占いの霊を追い出しました。すると、彼女の占いによって利益を得ていた人々が、パウロたちを訴え牢獄に入れてしまったのです。しかしその夜、地震が起こり、牢の扉が開き、囚人たちの鎖が外れました。看守は囚人たちが逃げたと思い、自殺しようとしました。(囚人を逃がした場合は看守の責任となり、死刑にされることが決められていました。)パウロは、囚人たちが逃げていないことを彼に告げ、自殺を思いとどまらせました。彼はパウロに言いました。使徒の働き16章30節「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。31節「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」そして、その家の者すべてが洗礼を受けたとあります。その後、先ほどのリディアやこの看守の家族が中心になってピリピの教会が建てられたと考えられます。

ピリピの教会とパウロは親しい関係にありました。また、ピリピの教会はパウロの働きのために度々、贈り物を届けていたようです。パウロがローマの獄中に囚われている時、ピリピの教会からエパフロディトが慰問のために遣わされました。ところが、彼はローマに着くと病気になってしまいました。しばらくして彼が快復すると、パウロは、彼にピリピ教会へのお礼の手紙を託して送り返しました。それがこのピリピ人への手紙です。その中でパウロは、感謝と共に、様々な問題に対する対応についても書いています。

今日は、ピリピ人への手紙の中で、2章の5節から11節までのことばについて学びます。このことばは、すでにパレスチナの教会(初代教会)の中で歌われていた讃美歌か詩をパウロが引用したものと考えられます。このことばの中に、キリストの謙遜な姿が表されています。5節「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」とあります。パウロはピリピの教会の人々に、キリスト・イエスと同じ思いを持つように薦めています。その思いとはどのようなものでしょうか。6節7節「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」イエス・キリストが神の栄光の姿で地上に来られていたら、誰もイエス・キリストに近づくことはできませんでした。また、神の栄光の姿では、私たちの罪の身代わりとして死ぬこともできません。イエスは、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬために、神の栄光の姿を捨てて、人として生まれてくださったのです。しかしそれは、神の本質を捨てられたということではありません。イエスは人として生まれても罪を犯すことはありませんでした。ユダヤ人たちは神が人となられたことを信じることが出来ませんでした。彼らにとって神とは栄光の姿であり、それを捨てて、罪人と同じ人間として生まれるなど信じられないことでした。それゆえ、イエス・キリストが父(神)と自分が同じ存在であると主張したとき、祭司と律法学者たちは、イエスが神を冒涜したとして十字架につけて殺してしまったのです。7節8節「人としての姿をもって現われ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。十字架につけられて殺されるとは、重罪人であることを世間に知らせることになります。また、この死刑の方法では、生きたまま十字架につけられ、死ぬまでその痛みと苦しみを受けなければなりません。当時の死刑の中で一番、痛みや苦しみの大きい方法でした。また、十字架につけられて殺された者は、呪われた者として人々に嫌がられ、その家族も呪われた一家として差別を受けることになります。それゆえ、イエス・キリストは兵隊に捕らわれる前に、ゲツセマネの園で、汗が血のように流れるほど父なる神に祈ったのです。イエス・キリストは先ほどのことを全部知った上で、十字架の死を自ら受けられたのです。9節~11節「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」「すべての名にまさる名」とは、一切の権威にまさる名という意味です。イエスの十字架の姿に私たちは、イエスの謙遜な姿を見ます。イエス・キリストは、私たちを罪から救うために人として生まれ、さらに、十字架の上で命さえ犠牲にしてくださいました。私たちの罪はそれほどに大きいものなのです。もし、私たちが努力して正しい者となり、罪を犯すことがなかったら、イエス・キリストが神の姿を捨てて人として生まれる必要はなく、十字架につけられて殺されることもありませんでした。あの十字架のイエスの姿は、私たちの罪の重さを表したものです。人間の理解力では、自分の罪の大きさは分かりません。私たちは人と比較して、あの人よりは自分は正しいと考えやすい者です。しかし、罪とは、人と比較して考えるものではなく、神の基準で考えなければなりません。なぜなら、私たちの罪を裁かれるお方は神お一人だからです。神は愛という性質と共に義の性質をもお持ちの方です。神は義であるがゆえに、人の罪を赦すことが出来ず、罰しなければなりません。しかし、愛の神は罪人さえ愛する神です。それゆえ、神は人を神の刑罰から救いたいと願っておられます。この二つの性質を満たすために、神は私たちの罪をイエス・キリストに負わせて、その罪を清算(罪の赦しを完成)されたのです。イエス・キリストは私たちを救うためにどれほど大きな犠牲を支払われたでしょうか。そこに私たちは神の計画に従うイエス・キリストの謙遜な姿を見ます。私たちは自分のことを第一に考えてしまう弱い者です。しかしパウロは、イエス・キリストの十字架の姿を通して、互いに自分を捨てて仕えあうことを薦めています。そのために、私たちが、キリストの愛と謙遜を学ばなければなりません。神はご自身の愛するひとり子イエス・キリストを十字架につけられました。また、イエス・キリストは、無実でありながら、私たちの罪の身代わりとして十字架でご自分の命を犠牲にされました。この十字架のイエスの姿に、神の愛とキリストの謙遜な姿が表されています。私たちは、この神の愛とキリストの謙遜に対してどのように応えるべきでしょうか。