何の権威によって

マルコの福音書11章20節~12章12節

先週は、イエスのエルサレム入城と宮清めについてお話しました。マルコは宮清めに関連して、イエスがいちじくの木を呪った事を伝えています。そのいちじくは葉ばかりで実がありませんでした。それは、あたかも神殿に人がたくさん集まっていても、商売をしている人や形だけの礼拝をしている人たちを象徴しているかのようでした。

1、神を信じる者の祈り(22節~26節)

ペテロはイエスが呪ったいちじくの木が枯れているのを見てイエスに尋ねました。21節「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」イエスはこの出来事をとおして、弟子たちに祈りについて教えられました。イエスはここで23節「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」24節「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言われました。この言葉だけを読むと、信じて熱心に祈れば何でも与えられると教えているようにみえます。聖書が教える祈りとはそのようなものでしょうか。もし、そうであるならば、他の新興宗教の祈りと同じことになってしまいます。日本人の祈りは、願うことに重点が置かれ、願い事がかなえられるまで熱心に祈る人を信心深い人と考えています。しかしそれは、人間の祈りの力によって神を動かすことであり、神と人どちらが主人となっているでしょうか。熱心に祈れば叶えられるという祈りは、信仰深い祈りのようですが、実は、神を利用する祈りでしかないのです。では、聖書では祈りとはどのように教えているでしょうか。聖書が教える祈りとは、神の御心を知り、それに自分自身を従わせる祈りです。代表的なのが、イエスのゲッセマネの園での祈りです。イエスはこの杯を取り除けてください。(十字架の死を避ける道)を願いましたが、最後に、御心が成りますようにと祈りました。ここからも分かるように、叶えられる祈りとは、自分の願望を満たすための祈りではなく、御心に従った祈りです。イエスが先ほど言われた、「信じる者の祈り」とは、神の御心と信じて祈るならば、すでに得たと信じなさいということです。祈りとは簡単なようで、奥が深いものです。私たちが御ことばを読み、神の御心を求めて祈る時、自分の欲望のための祈りなのか、神の御心なのか判別がつくようになってきます。祈りとはそのように自分の願いを叶える祈りではなく、御心が成るように祈ることです。それゆえ、御心に叶った祈りは必ずそうなると信じることができるのです。

2、何の権威によってか(27節~33節)

イエスが宮の中をあるいておられると祭司長たち、律法学者たち、長老たちがイエスに言いました。28節「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」ここで問題とされているのは「何の権威によるのか」ということです。彼らが主張した「これらのこと」とは、宮清めの出来事と考えられます。イエスが宮の中で両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し、宮を強盗の巣にしていると批判されました。祭司長たちにとってそれは、神を冒涜する行為であり、自分たちを批判する行為、ことばでした。それゆえ、彼らはイエスに何の権威によって、そのようなことをするのかと問いただしたのです。ここに登場した「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」というのは、ユダヤ教の指導者であり、サンヘドリンと呼ばれる議員を指しています。彼らは、ユダヤ人による選挙で選ばれた者です。それゆえ、彼らは自分たちには神の権威と、ユダヤ国民より指導者として権威が与えられていると信じていました。それに比べ、お前(イエス)には何の権威があるのかと問いかけたのです。イエスはここでバプテスマのヨハネを持ち出し30節「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」と言われました。彼らその質問に答えることができませんでした。なぜなら、「天から来た」と言えば、彼を預言者と認めなかった自分たちの罪を認めることになります。また、「人から出た」と言えば、群衆から反発を受けてしまいます。群衆はバプテスマのヨハネを神から遣わされた預言者と信じていたからです。結局、彼らはイエスの質問に答えることができずに、「分かりません」と答えるしかできなかったのです。

3、ぶどう園の息子と農夫たち(12章1節~12節)

このぶどう園のたとえ話は、イエスと先ほどの「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」との関係を説明した例え話です。ここに登場するぶどう園の主人は神様を指しています。農夫たちは「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」を指しています。また、主人が遣わしたしもべたちは旧約の預言者たちを指しています。また、農夫たちに殺される主人の息子はイエス・キリストを指しています。ぶどう園の主人は、農夫たちにぶどう園の管理を任せて旅立ちました。収穫の時に、主人はしもべを農夫たちのところに遣わしますが、彼らはそのしもべを打ち叩いて送り返したとあります。それは、祭司たち(宗教指導者たちが)が神に背き自分たちの利益を得るために神を利用している姿を示しています。神は、預言者たちを遣わしましたが、彼らはその声に耳を傾けませんでした。そこで、主人は愛する息子を遣わしますが。彼らはその息子をも殺してしまいました。これは、イエスの十字架の苦しみと死を表しています。最後に、イエスは旧約聖書の詩篇118篇のことばを引用しました。10節11節「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」「家を建てる者たち」と言うのは宗教指導者たちのこと。「捨てられた石」とはイエス・キリストのことです。そして、「これは主がなさったこと」とは、イエスの十字架の死は神のご計画であったことを示しています。そのことはユダヤ人たちには理解できないことでした。また、「要の石」とは家を建てるための重要な石をさしています。イエスの死によってキリスト教の土台ができることを預言した言葉です。神々と崇められているものの中には、将軍や皇帝、奇蹟をなした人々が含まれています。しかし、それは人が神として崇められていることです。イエス・キリストはそうではありません。彼は神が人となられたお方です。ある時、イエスは弟子たちに尋ねました。「あなたがたは、わたしをだれと言いますか。」それに対してペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。結局、聖書が私たちに問いかけていることは「イエスをだれと信じるか」ということです。人間と信じるのか、神の子と信じるのか。また、人がイエスを神の子と信じるのは、人間の知恵や知識ではなく、神の力が必要だということを聖書は教えています。あなたはイエス・キリストをだれと信じますか。