処女降誕を信じる信仰

ルカの福音書1章26節~38節
今日は、処女マリアからイエスが誕生された神の奇跡からお話いたします。一人の処女から男の子が生まれるということは、この地上の知恵や常識では理解できないことです。私が教会に通い始めて聖書を読み始めた時に、一番信じられなかったのが、処女降誕とイエス・キリストが死より三日目に復活したことでした。これは私だけではなく、多くの方々がつまずく出来事ではないかと思います。以前NHKの特別番組でイエス・キリストの話を見たことがあります。その中で、そのアナウンサーは、マリアはローマの兵隊と関係を持ち、子を身ごもってしまった。それを知ったヨセフはマリアを愛しているがゆえに彼女をかわいそうに思い、彼女を妻として受け入れ、イエスを自分の子として育てたと話していました。私はそれを聞いてびっくりしました。聖書とは全く違う話です。しかし、考えてみると、一般の人にとってはその方がイエスの誕生について理解しやすいのではないかと思いました。イエスの誕生について、神はマリアとヨセフに別々に現れました。イエスの誕生を告げられた二人の反応から学びます。
1、ヨセフ(マタイの福音書1章18節~25節)
この時、マリアとヨセフは婚約の状態でした。ユダヤ教では、婚約の時期から法的には夫婦と認められます。この状況で、ヨセフはマリアが身ごもっていることに気が付きました。ヨセフは驚いた事でしょう。自分には覚えがないのに、マリアが身ごもったということは、マリアが自分を裏切り他の誰かと姦淫の罪を犯したとしか理解できません。この状況で、ヨセフは三つのことが考えられました。一つは、マリアを姦淫の罪で訴え、死刑にすること。二つ目は彼女の罪を見逃し、知らぬふりをして結婚すること。三つ目は、ひそかに彼女を離縁することです。ヨセフの性格からして、愛するマリアを姦淫の罪で死刑にすることはできなかったでしょう。また、彼は正しい人、神の戒めを正しく守る人ですから、姦淫の罪を犯したマリアをそのまま妻に迎えることは、彼の信仰としてできないことです。そこで、彼が考えたのが、彼女を離縁しひそかに実家に帰すことでした。彼が思い悩んでいるときに、主の使いが夢の中に現れました。そして彼に言いました。20節「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」ヨセフは夢の中で主の使いの言葉を聞いてどうしたでしょうか。24節25節「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を受け入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」とあります。ヨセフはなぜ、マリアを妻に受け入れたのでしょうか。マリアがかわいそうで受け入れたわけではありません。また、彼はマリアがどのようにして、聖霊によって身ごもったかを理解したわけでもありません。彼がマリアを受け入れたのは、彼女が姦淫するような女性ではないと信じていたこと。また、主の使いが夢の中で言われたように、彼女が聖霊によって身ごもったことを信仰によって信じたからです。聖書にはありませんが、ヨセフは神には不可能はないという信仰を持っていたに違いありません。そこで、マリアが身ごもったのは神の御計画であることを信じたのです。
2、マリア(ルカの福音書1章26節~38節)
マリアの場合は直接、御使いガブリエルが神から遣わされて、マリアに会いに来ました。御使いはマリアに言いました。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」マリアはこのことばに戸惑ったとあります。すると御使いは彼女に言いました。
30節~33節「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。神はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」マリアは御使いに言いました。34節「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」御使いは彼女に答えました。35節~37節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」マリアは御使いに言いました。38節「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行ったとあります。この時の彼女の年齢には諸説あります。一番若い説で年齢が12歳、13歳と言われています。いくら当時の女性の結婚年齢が低かったとしても、12歳の少女に御使いが現われ、聖霊によって身ごもると聞いて平気なわけはありません。彼女はどれほど驚いた事でしょう。しかも、その男の子が神の子と呼ばれ、ダビデの王位を受け、ヤコブの家を治めるなど信じられないことばかりです。しかも、彼女はヨセフと婚約状態です。自分が身ごもったことを知れば、ヨセフとの婚約がどうなってしまうのか。不安や恐れがあったはずです。何よりも、男性との関係なしで、どのようにして身ごもるのかも彼女にはわからなかったでしょう。しかし、彼女は、御使いのことば27節「神にとって不可能なことは何もありません。」ということばを信じたのです。
結局、私たち人間の知恵では、神の奇跡「処女降誕」を理解できないということです。では、私たちは神の奇跡をどのように信じたらよいのでしょうか。それは、信仰によるのです。信仰とは御使いガブリエルがマリアに言った「神にとって不可能なことはなにもありません。」ということばを信じることです。何でも努力すれば理解できると考える人たちがいます。しかし、私たちが考えて理解できるような神は神と言えるでしょうか。神は創造主であり、私たちは被造物(神によって創られた者)です。私たちが、神の前に素直に自分の無力さを認め、神のなされたことを信じたいと思う時、神ご自身が私たちに神を信じる力、信仰を与えて下さるのです。