十字架への道(2)新しい契約

マルコの福音書14章10節~26節

1、過越しの祭りについて

今日の聖書の箇所は、最後の晩餐として有名な場面です。過越しの祭りの起源については先週お話ししました。イスラエルの民はエジプトに下る神の裁きから救われるために、羊を殺し、その血を門とかもいに塗るようにモーセを通して神に命じられました。神はその血を見てその家を通り越し、その家には災いは下りませんでした。神はその出来事を忘れないように、また、そのことを子孫に伝えるように、過越しの祭りを守るようにイスラエルの民に命じられました。もちろん、イスラエルの歴史の中で、この祭りがいつも守られていたわけではありません。しかし、南ユダ王国が滅び、神殿が壊され、バビロニアに捕囚とし移住させられた彼らは、神殿礼拝から会堂での礼拝に代わり、律法(旧約聖書)を熱心に学ぶようになりました。また、安息日や様々な規則が守られるようになりました。イエスの時代、律法学者たちの権威がさらに強くなり、この時代、ユダヤ人にとって過越しの祭りは大切な祭りとして守られるようになっていたのです。

2、イスカリオテ・ユダの裏切りについて

10節と11節に、イスカリオテ・ユダの裏切りについて記されています。十二弟子の一人である彼がどうしてイエスを裏切ったのでしょうか。その理由は様々な意見があります。ただ、彼が弟子たちのお金を預かり、そこから盗んでいたことは、はっきりと聖書に記されています。彼は、弟子たちの中でお金の計算にたけていたのでしょう。イエス・キリストの弟子になったのも、イエスが高い地位に就いた時、自分も重要な地位に就けると考えたからでしょう。しかし、イエスは彼が考えたような活動はしませんでした。そこで、イエスを見限り、祭司長たちにイエスを引き渡し、いくらかのお金を得ようと考えたのです。しかし、この時点で彼はイエスが殺されるとは全く考えていませんでした。悪魔はそんな彼を利用して、イエスを裏切らせ十字架に付けて殺させたのです。イエスは18節で、自分を裏切る者が弟子たちの中にいることを皆の前で公表しました。それは、イスカリオテ・ユダに対する警告であり、彼に悔い改めの機会を与えるためでした。しかし、彼はイエスの警告に耳をふさぎ、サタンの計画を実行してしまったのです。

3、新しい契約

過越しの祭りの時には、種を入れないパンを食べ、ぶどう酒を飲むことが決められていました。この最後の晩餐の時にもイエスは弟子たちと過越しの食事をしていました。ここでイエスは弟子たちに対して新しい契約を結ぶと宣言されたのです。22節~24節「さて一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの契約の血です』」過越しの祭りについては、弟子たちも良く知っていたはずです。この時に食べるパンは、パン種(イースト菌)を入れない堅いパンで、イスラエルの民がエジプトを出る時に急いでいために、パンを発酵できずに持ち出したパンです。また、ぶどう酒は、神の裁きから救われるために、門とかもいに塗られた羊の血を表していました。どちらも、神の裁きから救われるためのしるしとして用いられたものです。イエスはその事を踏まえ、これから新しい契約を弟子たちと結ぼうとされたのです。イエスはこのパンがこれから十字架の上でささげられるご自分のからだだと言われ、ぶどう酒を「多くの人のために流される契約の血です。」と言われました。過越しの時に流された血は、羊の血と命でした。しかし、イエスは私たちの救いのために、十字架でご自身のいのちを犠牲にし、血を流すことによって、新しい契約を結んでくださったのです。「神と人間の契約」は、聖書全体を理解するうえで切な出来事です。神と人間との契約は大きく分けて二つに分けられます。一つは、その契約を守るなら祝福を受け、守らなければ神から罰を受けるという契約です。これを「業の契約」と呼びます。それは、モーセを通して与えられた律法全体をいいます。また、もう一つの契約は、主人が一方的にしもべに与える「恵みの契約」と呼ばれるもので、神が一方的に人間と結ぶ契約のことを指します。代表的なのが、ノアの洪水の出来事で、神は、一方的にこれからは洪水で地を滅ぼさないと宣言しています。旧約聖書の時代はこの「業の契約」で、律法のすべてを守らなければ救われないという契約でした。そのために、律法学者たちは熱心に律法を守り、神との契約を守るように人々にも厳しく教えたのです。しかし、後に、パウロが言うように、この契約は人間がどんなに努力しても守れない契約でした。これは、神の戒めが厳しすぎるというよりは、人間の中にある罪の性質が、この契約を守れないようにさせていたのです。神はそれゆえ、私たちのためにもう一つの契約を与えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架の死による新しい契約で、この契約は私たちがイエス・キリストを神の子と信じる信仰によって救われるという「恵みの契約」です。私たちが努力して勝ち取る救いではなく、神が一方的に与えられる救いです。しかし、神の子イエス・キリストはそのために、神の姿を捨て、人として生まれ、十字架の上で血を流し、ご自分の命を犠牲にされたのです。

4、まとめ

パウロが私たちに教えるように、律法は悪いものではありません。問題は、律法を守れない私たちの内にある罪です。また、私たちは律法という神の基準がなければ、だれも自分の罪に気付くことはありません。律法はパウロが言うように私たちの養育係の役割を果たし、律法を通して初めて私たちは自分が罪人であることを知ることが出来るのです。しかし、律法は私たちに罪が何であるかを教えるだけで、救いに至ることはできませんでした。私たちの罪の問題を解決するためには、羊の血では不十分でした。私たちを罪から救うためには、罪のない神の子の命が必要でした。それゆえ、私たちの罪の身代わりとして死ぬために、イエスは人として生まれてくださったのです。神はエジプトの裁きから救われた出来事を忘れないように過越しの祭りとして守り、子孫にも伝えるように命じています。今、私たちはこの新しい契約を聖餐式として守っています。私たちが行う聖餐式では、パンとぶどうジュースを用いますが、このパンとぶどうジュースを聖餐式でいただくとき、聖霊の働きによって、イエスのからだと十字架で流された血潮にあずかると教えられています。「恵みの契約」は一方的に神が結んでくださった契約ですが、私たちはその契約書にサインをしなければなりません。それは、その契約に同意するということです。そのために、私たちは信仰を告白して洗礼を受けるのです。この契約は、私たちが生きている間に結ばなければなりません。私たちが終わりの日に、神の前に立った時、いのちの書が開かれると聖書にあります。このいのちの書に自分の名前があるかないかは、この契約に同意しサインをしたかどうかで決まるのです。