ヨハネの手紙第一 5章14節15節
今年も最後の日曜日の礼拝の時を迎えました。皆様にとって今年はどのような一年だったでしょうか。昨年に引き続き新型コロナウイルスのために、教会に集まって礼拝をささげることができなかった時もありました。そのことを通して、教会に集まって礼拝をささげることの大切な意味を改めて教えられました。また、試行錯誤しながらですが、YouTubeで礼拝を配信することができるようになったことは感謝です。求道者や教会から離れた人々がYouTubeを通して礼拝に参加するようになったというお話を聞いたことがあります。また、高齢の方が、自宅で家族と共にYouTubeで礼拝を持つようになったと言うことも聞きました。新型コロナウイルスのゆえに、教会に集まることができなくても、神は様々な方法を通して、私たちに恵みを与えてくださることを覚えます。これからも礼拝をYouTubeで配信していきますが、ぜひ、YouTubeでの礼拝に満足することなく、教会にお越しくださることを願っております。
今年一年、皆様はどのような祈りをささげてきたでしょうか。その祈りの中には、叶えられた祈りもあれば、叶えられなかった祈りもあるはずです。叶えられた祈りは感謝ですが、叶えられなかった祈りについては、なぜ叶えられなかったのかを考える必要があります。
ヤコブの手紙4章2節「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」3節「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」とあります。この個所から、「私たちは本当に神にそれが必要だと祈り続けたか。」また「求めた動機は何か。自分の欲望や快楽のためではなかったか。」また、「自分の願いを優先し、神の御心を求めて祈ったか。」を一つ一つ考える必要があります。マタイの福音書7章7節8節に「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求めるものは受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます」と教えられています。なぜ、マタイは「求めるものは受け、探す者は見出し、たたく者には開かれる」と教えているのでしょうか。その答えは11節にあります。11節「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」とあります。
父なる神は私たちを愛しておられるので、真剣に求める者に、必要な物は必ずあたえてくださるのです。イエスの弟子のヨハネもヨハネの手紙第一の5章14節15節でこのように教えています。14節「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は、聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」15節「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」私たちの祈りは、「自己中心な祈りではなかったか、また、自分の願望を達成するための祈りではなかったか」「御心に従った祈りであったか」もう一度、自分の心の中を検証して、新たな思いで祈りなおす必要があるのではないでしょうか。
祈りが叶えられなかったとしても、必ずしも動機が悪かったわけではありません。パウロは自分の祈りが叶えられなかったことをこのように喜びました。パウロは体にとげ(痛み)があり、神にこのとげをと取り去らせてくださるように三度も主に願ったとあります。しかし、その願い(祈り)は叶えられませんでした。しかし、神はその問題(痛み)が取り去られない理由をパウロに知らせてくださったのです。コリント人への手紙第二12章9節「しかし主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現わされるからである。』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と告白しています。祈りが叶えられることが必ずしも良いことではありません。パウロは自分の祈りが叶えられなかったことによってもっと大きな神の恵みをいただいたのです。熱心な祈りは、時として神を自分の思う通りに動かそうとする過ちを犯してしまいます。私たちの祈りは、神を自分の思い通りに動かす祈りではなく、私たちの心が、神の御心に従うことができるように変えていただく祈りが必要なのです。
また、時間的な問題があります。私たちは一日も早く問題を解決してほしいと祈りますが、神は時間に縛られないお方で、神にとって一日は千年のようであり、千年は一日のようであるとあります。神と私たちの時間には違いがあります。それゆえ、私たちは忍耐を持って神の時を待つ信仰が必要です。アブラハムが神に出会って子孫を祝福するという約束をいただきましたが、サラが男の子イサクを産んだのが、アブラハムが神から約束を受けて25年後のことでした。アブラハムは神様の約束を信じて25年間祈り続けたのです。また、南ユダ王国がバビロニヤに滅ぼされ、彼らは捕囚としてバビロニヤに移住させられました。その後、捕囚が許され、国を再建できたのが70年後でした。彼らは、国が滅んだ後、70年祈り続けたのです。そのように神の時を長く、待ち続けなければならない時もあります。しかし、私たちは神の時を待ち続けることによって、信仰が強められ、忍耐を養うことができるのです。ローマ人の手紙5章3節4節「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」とあります。神の時を待つのも無駄ではありません。神は私たちが神の時を待つ間も私たちの信仰を強めてくださるからです。
また、神は私たちの人生のすべてをご覧になって、一番良いものを与えてくださいます。たとえ最初は喜ばしいことではなくても、後に過去を振り返った時、それが一番良い時であったことに気付くことがあります。祈りが叶えられた、叶えられなかったという出来事だけで、神の愛を疑うなら、私たちの信仰はご利益信仰のようになってしまいます。私たちの信仰は神の愛を土台とした信仰です。それは、周りの状況に左右されない、絶対に揺るがされないものです。イエス・キリストの愛は、いつまでも変わることはありません。来年はどのような年になるかわかりませんが、神の愛に信頼して共に祈って行きたいと思います。