イエス・キリストの誕生と永遠のいのち

マタイの福音書1章21節 クリスマスイブ礼拝・キャンドルサービス

今年もいよいよ、クリスマスの日を迎えようとしています。今夜は、静かに心を鎮めて神の子イエス・キリストの誕生に心を向けたいと思います。イエス・キリストの誕生は今から二千年前の出来事です。その二千年前のイエス・キリストの誕生と、今の私たちと何の関係があるのでしょうか。

1、「イエス」という名の意味について

イエスと言う名は、ヨセフとマリアが幼子に付けた名ではありません。御使いを通して、神が幼子に「イエス」と命じられて付けられた名です。その意味は「主は救い」という意味です。神が特定の人に名前を与える場合、特別な意味があります。神がイエスと名付けた意味は「ご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と説明されています。イエスの誕生の目的は、私たちをその罪から救うためでした。聖書が教える罪は、世の法律で裁かれる罪だけではありません。聖書に記されている「罪」ということばは、ギリシャ語でハマルティアという言葉が使われ、その意味は「的外れ」という意味があります。聖書では、神の御心から外れた行為を罪と教えています。当然、物を盗むことも罪ですが、その物を自分の物にしたいという欲望を抱くことも神は罪に定められます。イエスは、姦淫について、情欲を抱いて女性を見た者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのですと教えています。罪とは、私たちが罪と感じる、感じないに関係なく、神の目を通して罪かそうでないかが判断されます。そう考えると、私たちの罪は神様の前に大きく積みあげられているのではないでしょうか。一日一回罪を犯せば、1年で365回罪を犯したことになります。10年で3650回にもなります。

2、イエスの誕生と私たちの罪の赦し

聖書を読んでいて理解できない最大の出来事は、「処女降誕とイエスの死よりの復活」です。私が聖書を最初に読んだとき、イエス・キリストが処女のマリアから生まれたと言うことをそのまま信じることができませんでした。きっと、マリアが他の男性と関係を持って子を身ごもり、それを隠すために、聖霊によって身ごもったと、マリアがヨセフをだましたのだと考えました。しかし、聖書を何度も読むなら、マリアはそのようなふしだらな女性ではないし、ヨセフがマリアを妻に迎え入れたのは、夢を通して語られた御使いのことばを信じたからでした。旧約聖書において、イスラエルの民は自分の罪が赦されるために、牛や羊を祭壇で犠牲としてささげていました。しかし、それは完全な罪の赦しにはならず、彼らは、何度も罪の犠牲として動物のいのちをささげ続けなければなりませんでした。新約聖書は、動物のいのちは人の罪の身代わりにはならないと教えています。私たちの罪を完全に贖うためには、動物や人間のいのちではなく、罪の無い者のいのちで贖うより方法はありません。罪の無い者は神以外に存在しません。しかし、神は死ぬことができません。それゆえ、私たちの罪を完全に贖うためには、罪の無い神が私たちの身代わりとなるために、肉体を持って生まれる以外には私たちの罪の赦しはありあえません。それゆ、神の子イエス・キリストが神の姿を捨てて、人間の幼子として誕生されたのです。私たちは、処女降誕の方法は理解できません。しかし、私たちは、神の子が処女マリアから生まれ、すべての人の罪の身代わりとして、ご自身のちを犠牲にすることによって、私たちを罪から救うという神の計画は理解できます。

3、イエスの誕生と永遠のいのち

新約聖書の中に、「永遠のいのち」と言う言葉が何度か出て来ます。聖書で教える「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に生きるいのちの事ではありません。また、死んでから永遠に生きるいのちの事でもありません。「永遠のいのち」とは、永遠の存在であるイエス・キリストと一つになることで、それは、イエスを神の子と信じた瞬間に永遠のいのちが与えられるということです。また、聖書はすべての人は終わりの時に神様の前に集められ、「最後の審判」を受けると教えられています。罪を犯した者はその償いとして神の裁きを受け、イエス・キリストのよって罪赦された者は、神の国で永遠に神と共に暮らすことができます。本来、私たちは神様の前に多くの罪を犯してしまいました。それゆえ、天の御国には誰にも入ることができません。神は、私たちをあわれみ、私たちを天の御国に入れてくださるために、神のひとり子イエスを人として誕生させ、十字架でいのちを取られました。イエスは無実でありながら、自ら十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされました。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活して、天におられる父なる神のもとへ昇って行かれたのです。イエス・キリストのいのちは、当時の人たちの罪の代価だけではなく、今生きている私たちの罪も含めた身代わりの死です。それゆえ、私たちが自分の罪を認め、イエスを神の子と信じるなら、私たちの罪は赦されると聖書に約束されています。二千年前のイエスと私たちをつなぐくさりは、私たちの罪です。自分の罪を認めるなら、イエスによってすべての罪は赦され、天の御国に私たちの住まいが備えられます。しかし、自分の罪を認めないなら、二千年前のイエスと関係を持つことはできません。その人にとって、イエス・キリストは二千年前の人物で、十字架に付けられて殺された人でしかありません。イエス・キリストは何のために生まれ、何のために十字架に付けられて殺されてしまったのでしょうか。聖書は、神は私たちを愛し、私たちを罪から救うために、ひとり子イエスを人として誕生させたと教えています。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架の上でご自分のいのちを犠牲とされました。イエスの誕生は、私たちを罪から救うための神の計画でした。私たちが素直に自分の罪を認め、神による救いの恵みを受け取るなら、私たちは、死んで終わりではなく、天国に住まいを備えられ、永遠に神と共に暮らすことができるのです。神を信じるとは、神の存在を信じると言うことではありません。神は私たちと同じ人格を持ち、私たちを愛し、私たちとの約束を守られるお方であることを信じること、これが神を信じると言うことです。それは、神と私たちの人格的な交わり、信頼関係を意味しています。神は、遠くに存在して、遠くから私たちを眺めている神ではありません。神は私たちの近くにおられ、私たちを愛し、助けてくださるお方です。それゆえ、私たちは神を父として信頼することができるのです。