マタイの福音書11章28節~30節
2024年が始まりました。今年はどのような一年になるでしょうか。戦争や争いのない世界を望みますが、今年も世界情勢は不安定な日々が続きそうです。
1、2024年年間聖句
今年の年間聖句は、マタイの福音書22章37節「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」39節「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」を選びました。このことばは、律法の専門家がイエスの知識を試すために、律法の中でどの戒めが一番重要かを聞いた時に、イエスが彼に答えたことばです。また、イエスは40節「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」と言われました。「律法と預言者」とは、旧約聖書の全体を表す言葉です。つまり、先ほどの二つの戒めが聖書の中心の教えであるという意味です。この二つの戒めは人間の力(努力)で守れるものではありません。神の助けが必要です。幼児期に母親に十分に抱かれ愛情を受けた子は情緒が安定し、人を信頼し愛することができる大人に成長するといわれています。また、その反対に、母親の十分な愛を受けることなく成長した人は、情緒が不安定で、人を信じることが苦手で、人を赦し愛することが不得手な大人に成長するといわれています。神と私たちとの関係も同じです。神と親しく交わり信頼関係がしっかりしている人は、心に余裕ができ、人を赦し愛することができますが、神との関係が遠くなると、人間関係もギスギスしたものになります。それゆえ、イエスが初めに言われた第一の戒め「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛する」ことが大切な第一の戒めなのです。そして、神の愛に満たされた人が、隣人を自分自身のように愛することができるようになるのです。今年一年、聖書を毎日読み、お祈りの時間を持ちましょう。その上で、自分と同じように隣人を愛したいと思います。
2、平安な生涯を過ごすために
初めに、マタイの福音書11章28節~30節をお読みしました。この聖句は聖書のことばの中でも有名な聖句です。イエスは群衆に対して、28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と呼びかけました。ここでイエスが言われた「疲れた人」「重荷を負った人」とは、生活の疲れや経済的な重荷(借金)を負った人だけではなく、律法学者たちが神の戒めに加えた律法(人間の教え)を守ることが出来ずに苦しんでいる人たちのことも指しています。イエスはそのような重荷を負った人々に対して、「あなたがたを休ませてあげます。」と言われました。イエスはどのようにして、私たちを休ませることができるのでしょうか。29節「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」と言われました。「くびき」とは、農作業の時に二頭の牛や馬を繋ぐ道具のことです。ここでイエスが言われたことは、わたしと一緒に歩みなさいという意味です。私たちは明日のことも、その先のことも何が起こるのか分からない者です。それでも私たちは先のことまで心配します。目の見えない人には導き手が必要です。しかし、目の見えない人の手を無理に引っ張って案内をしようとすると、かえって不安を与えることになります。目の見えない人を導く場合、肩に手を置いてもらい、共に歩くことが安心を与える導き方であると学んだことがあります。神はすべての事を知った上で、最善の道に私たちを導いてくださいます。それゆえ、神に信頼してイエスと共に歩くことが、イエスとくびきを共にすることであり、たましいに安らぎを得る方法なのです。また、30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われました。「負いやすい」とは、他の訳では「心地よく」とも訳されることばです。それは、無理に引っ張ることがないという意味ではないでしょうか。神は私たちを無理に導くのではなく、選択する力を与えられました。それゆえ、私たちは、神によって創られましたが、ロボットのように自分の意思のない生き物ではありません。私たちには神の戒めに従うことも、従わないこともできる自由意思が与えられています。しかし、神に従わない場合、私たちはその重荷を背負うことになります。アダムとエバは神の戒めに従わなかったゆえに、罪を犯しエデンの園から追い出され、神との親しい関係を失ってしまいました。しかし、神はそれでアダムとエバのいのちを奪ったわけではありません。神は罪を犯した二人のために、皮の衣を作って彼らに着せられたとあります。その皮の衣を作るために動物のいのちが犠牲にされました。それは、後のイエス・キリストの贖いを表しています。
神は罪人と親しい関係を回復するために、ひとり子イエスのいのちを犠牲にされました。神は私たちに悔い改めるチャンスを与えられました。アブラハムもモーセもダビデも失敗はありました。それでも、彼らに対する神の愛は変わりませんでした。私たちは不完全で失敗をしやすい者です。それゆえ、神は私たちに悔い改めるチャンスを与えてくださり、私たちが罪を認めて悔い改めるなら、何度でもあの放蕩息子を喜んで迎える父親のように私たちを受け入れてくださるのです。今年一年どんな年になるのか分かりませんが、神と共に歩み、平安な日々を過ごしたいと思います。