心の渇きを満たす神の愛

ヨハネの福音書4章5節~15節

今日は、私たちの心の問題について共に考えたいと思います。

1、サマリアの女性について

イエスはガリラヤ地方に向かうにあたって、サマリアを通る道を選ばれました。当時、ユダヤ人とサマリア人は宗教的な対立もあり、仲が良くありませんでした。それゆえ、ユダヤ人がガリラヤ方面に向かう場合、ヨルダン川の東側を通り、サマリアを通ることはありませんでした。しかし、イエスはあえてサマリアを通る道を選ばれました。そこには、神の特別な計画があったからです。

イエスが旅の疲れで、井戸の傍らで休んでおられると、一人のサマリアの女性が井戸に水を汲みにやって来ました。聖書はその時間を第六時であったと記録しています。現在の時間に合わせると、正午ごろであったと欄外に記されています。当時、女性たちが井戸に水を汲みに来るのは、朝早くか夕方の時間が一般的でした。彼女があえて正午の時間に水を汲みに来たのは、人に出会わないためでした。17節に彼女が五人の男性と結婚と離婚を繰り返し、今も別の男性と生活していることをイエスに見抜かれますが、彼女はこの町で、ふしだらな女性として、周りの人々に嫌われていたのではないかと思います。それゆえ、彼女は町の人と出会うことがないように、昼の時間に水を汲みに来ていたのです。

イエスは彼女に7節「わたしに水を飲ませてください」と声を掛けました。彼女はイエスに答えました。9節「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」また「ユダヤ人はサマリア人とは付き合いをしていなかったのである。」とあるのは、先ほどの、宗教の対立と歴史的な民族の対立があったからです。イエスはさらに彼女に言われました。10節「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」イエスは霊的な意味での「生ける水」の話をしたのですが、彼女はそのことをわからず、イエスに言いました。11節「主よ。あなたは汲む物をもっておられませし、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にいれるのでしょうか。」イエスは彼女に言われました。13節「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」彼女はイエスに言いました。15節「主よ。私が渇くことがないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私にください。」この後、イエスは彼女の心の問題の核心を突きます。彼女は今まで、五人の男性と結婚し、その五人とも離婚し、さらに今は別の男性と生活を共にしていました。彼女は、なぜ、これほどに、結婚と離婚を繰り返したのでしょうか。「愛情飢餓」という心の病があります。幼い時に十分に両親の愛を受けずに育てられた場合、必要以上に配偶者、他者に愛情を求め、それがかなえられないと、不安や怒りの感情に支配され、人間関係をうまく築くことができません。彼女がどのように育てられたかは、わかりませんが、彼女がそのように夫婦関係を築くことができなかったのはそのような原因があったからではないでしょうか。この問題を解決するためには、無条件で愛されること、また、そのままの自分を受け入れられる(愛される)ことだと言われています。しかし、人間は他者を無条件で愛したり、そのままの姿を受け入れることができるでしょうか。この後、二人の会話は、神様について、礼拝について、キリスト、メシアについてと、霊的な話へと移って行きます。そして、その結論として、旧約聖書の時代から待ち望まれたメシヤとは、ご自分の事であるとイエスは証言されたのです。彼女は、イエスのことばに驚き、町中にこの出来事を伝えました。その結果、このサマリアの町で、多くの人々がイエスを救い主と信じたとあります。この後、彼女がどうなったのか書かれていないのでわかりませんが、イエスとの出会いが彼女の人生を変え、新しい人生を歩み始めたのではないでしょうか。

2、取税人マタイと取税人の頭ザアカイの場合

マタイとザアカイは取税人という仕事をしていました。取税人とは、ローマ政府のためにユダヤ人から税金を集める仕事で、多くのユダヤ人から嫌われる仕事でした。しかし、この仕事は、ローマ政府から委託された仕事で、多くの取税人は私腹を肥やすために、税金を高く集め自分の懐に入れていました。ユダヤ人たちはそのことを知っていましたが、ローマ政府に彼らの不正を訴えても、ローマ政府は一向に取り扱いませんでした。それゆえ、取税人は益々財産を増やし贅沢な生活をしていたのです。マタイによる福音書9章で、そんな取税人のマタイにイエスは声を掛けました。9節「わたしについてきなさい」すると、「彼は立ち上がってイエスにしたがった。」とあります。彼は取税人と言う仕事を捨てて、イエスの弟子となる道を選んだのです。彼はなぜ、取税人と言う仕事を捨てて、イエスに従う道を選んだのでしょうか。その前に、何故、彼はユダヤ人に嫌われる取税人と言う仕事を選んだのでしょうか。そこには、豊かな生活を求める気持ちがあったからではないでしょうか。しかし、彼は、自分の求める豊かな生活を得ましたが、決してその仕事は自分の心を満たすものではありませんでした。彼はそのことで悩んでいたのではないでしょうか。そんな時に、イエスに声をかけられ、取税人と言う仕事を捨てて、イエスに従う道を選んだのではないかと思います。

ザアカイは、マタイよりもさらに裕福であったと考えられます。また、マタイ以上に人々に嫌われていたのではないでしょうか。ルカによる福音書19章を見ると、イエスがエリコの町に入られると、ザアカイはイエスを見に行ったとあります。エスの弟子に元取税人のマタイがいることを知っていたのかもしれません。ユダヤでは、取税人は嫌われ者です。誰も、取税人とは付き合いをしませんでした。そんな取税人をイエスは弟子に加えていることを知り、イエスに興味を持ったのかもしれません。ザアカイがイエスを見に行くと、すでに多くの人々が集まっていました。ザアカイは背が低くて、群衆のためにイエスを見ることができませんでした。そこで彼はいちじく桑の木に登ったとあります。ここで、思わぬことが起こりました。イエスがザアカイの名を呼び、彼の家に泊まることにしていると言ったのです。ザアカイは大きな家に住んでいましたが、彼の家を訪ねる者など誰もいませんでした。その彼の家に、イエスは泊まることにしていると言われたのです。彼は大喜びで、イエスを自宅に招いたことでしょう。ここで奇蹟が起こりました。ザアカイは自ら、財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取った物があれば四倍にして返しますとイエスの前で宣言したのです。なぜ、彼はイエスと出会っただけで、こんなにも変わってしまったのでしょうか。答えは聖書には書かれていないので、正しい答えは分かりませんが、ザアカイがイエスの愛を受け取ることによって、イエスに喜ばれる道を歩みたいと決心したからではないでしょうか。今まで、彼は自分の欲のために生きて来ました。そのためには、人をだまし、押しのけ、傷つけても気にせずに生きて来ました。人に嫌われようと、自分さえ利益を得ればよいと考えていたのではないでしょうか。その反面、彼は人に愛されたい、理解されたいという気持ちもあったのではないでしょうか。ザアカイは、イエスとで出会って初めて、愛されることの喜びを知ったのです。それは、お金では得ることができない喜びでした。その、イエスの愛を知ったことによって、彼は変えられ、正しい人間関係を持つことを願う者に変えられたのです。イエスの愛が、サマリアの女性,取税人マタイ、ザアカイの人生を変えました。今も、神の愛があなたを変えることができます。私たちの心は飢え渇いているでしょうか。イエスは、あなたの心の渇きをいやすことのできるお方です。