ヨハネの福音書3章1節~10節
3月は卒業式、4月は入学式があります。新しい環境で生活を始める人たちは、期待もありますが不安も大きいのではないでしょうか。また、4月は出会いの時でもあります。人生を変える出会いというものがあります。私は25歳まで教会に行ったことはありませんでした。それが代々木公園で若い宣教師のグループに声をかけられ、始めてゴスペルコンサートに参加したことが大きな人生の転換点となりました。それまでの私は、何のために生きているのか分からず、お金をためて自分の店を持つことを目標として生きて行こうと考えていました。しかし、経済的に豊かになることが幸いな人生なのか、それも迷いながらの生活していました。そんな中、教会に来ている人々は、私が今まで出会ったことのないような人たちでした。彼らは神を信じ、神に生かされていることを喜んでいる人たちでした。しだいに私も神を信じてみたいと思うようになり、真剣に聖書を読むようになりました。それからしばらくして、神がおられることを信じることができました。そして自分も神に生かされている喜びを感じ、何か肩の荷が下りたような感じを受けました。
今日、皆さんに紹介するニコデモという人は、パリサイ人でユダヤ人の議員の一人でした。パリサイ人というのは、ユダヤ教に熱心な人で、神の戒めを忠実の守り、また、人々にもそれを守るように教えるユダヤ教の指導者です。彼らはイエスの教えを受け入れませんでした。そんな中、ニコデモは直接イエスに会って話を聞こうとイエスのもとを訪れたのです。
ユダヤ人の議員というのは、サンヘドリンと呼ばれる議会の一員で、ユダヤ人によって選ばれた有名人でもあります。その彼が、自分の立場もあり、人目を避けて夜イエスを尋ねたのです。ニコデモはイエスに言いました。2節「先生。私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモはイエスが神より遣わされた教師であると認めていました。3節「イエスは彼に答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」ニコデモはイエスが言われた「新しく生まれる」ということを「もう一度生まれなおす」ことと考えイエスに言いました。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」5節「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』ここで「水と御霊」というのが何を指しているのか、解釈はいくつかあります。しかし、ここでイエスが言わんとしていることは、新しく生まれることは、人間の力ではなく、聖霊(神)の力によらなければできないということではないでしょうか。それゆえ、イエスは6節でこのように言っています。6節「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」「肉」とは人間の力や努力を表しています。いくら人間が新しく生まれようと努力しても人間の力では人間の限界を超えることはできません。新しく生まれるとは、別の訳では「上から」とも訳されることばで、神の恵みによる以外、だれも新しく生まれることはできないということです。8節「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかわかりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」「風」という言葉は、ギリシャ語では「霊」と同じ言葉が使われます。結局、「新しく生まれる」ことは、神の働きであり、人間の理解を超えた神の御業であることを、イエスはニコデモに伝えようとしたのではないでしょうか。ニコデモはイエスの言われたことが理解できたでしょうか。9節「ニコデモは答えた。『どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。』10節「イエスは答えられた。『あなたはイスラエルの教師なのに、そのことがわからないのですか。』この後、ニコデモがどうしたのか聖書にはでてきません。再び彼が登場するのは、ヨハネの福音書7章50節51節です。律法学者たちがイエスを批判するなか、彼は、はっきりと自分の考えを人々に伝えています。50節51節「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。『私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているかを知ったうえでなければ、さばくことはしないのではないか。』」この言葉の中に、イエスを信じようとする彼の姿を見ることができます。最後に彼が登場するのは、イエスが十字架で殺された後です。ヨハネの福音書19章38節「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り下ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」39節「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜあわせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」40節「彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。」とあります。十字架につけられて殺された者は、凶悪な犯罪人です。そのからだをもらい受けるということは、その者の仲間だとみられます。アリマタヤのヨセフもニコデモもそれを覚悟して、イエスの体を受け取り、お墓に埋葬したのです。どれほど大きな覚悟が必要だったでしょう。その後、二人がどうなったか聖書には登場しません。想像するなら、その後にペテロたちによって作られたクリスチャンの仲間に入ったのではないかと考えられます。
ニコデモは、最後までイエスが言われた「新しく生まれる」ということを理解できたわけではなかったと思います。彼は、ただ聖霊の働きによって、イエスがただの人ではなく、神の子であることを信じたのではないでしょうか。私たちは、自分の力や知恵でイエスが神の子であることを信じることはできません。それは、人間の限界を超えた神の御業だからです。私たちに必要なことは、イエスが言われたように、ルカの福音書11章9節~13節「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさいそうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのなかで、子どもが魚を求めているのに、魚のかわりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」「新しく生まれる」こと、つまり「救われる」ことは、神の御業、恵みです。しかし、一つ確かなことは、求めない人には与えられないということです。お腹いっぱいの人の前にどんなご馳走を出しても食べることはしません。しかし、お腹がすいている人は、おにぎりでも喜んで食べます。イエスがマタイの福音書5章3節で言われた「心の貧しい者は幸いです」とは、心に飢え渇きのある人のことで、その人は「天の御国はその人たちのものだからです。」と言われるように、天に住まいが備えられる人の事なのです。