病をいやされるイエスの愛

ヨハネの福音書5章1節~9

新約聖書を読んでおりますと、たくさんの病に冒された人々が登場します。当時は、いまのような病院もなく、医術も未熟なものでした。偽医者や魔術まがいの医者も多くいたと伝えられています。イエスは宣教活動として病のある人々をいやしていたわけではありません。逆に、病をいやすことによって、イエスの宣教活動の障害となりました。それゆえ、イエスはいやされた人に、人々に言わないように諭している場面もあるほどです。しかし、イエスの周りには、病に苦しむ人々が集まり、イエスはその一人ひとりをあわれまれて、彼らの病をいやされたのです。今日は、二人の病人から病のいやしについて考えます。

1、長血をわずらった女性(マルコの福音書5章25節~34節)

 1節「そこに十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。」とあります。この病は、婦人病で出血がとまらない病でした。この病は、肉体的な痛みと共に精神的な苦痛を強いる病でもありました。旧約聖書の時代から、血が止まらない女性は汚れた女性とみなされ、宗教的な行為はもちろん、彼女が触った物も汚れるとされ、人々から忌み嫌われた病でした。それゆえ、彼女はユダヤ社会から疎外され、孤独な生活を12年間も強いられていたのです。さらに彼女は26節「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなくむしろもっと悪くなっていた。」とあります。先ほどもお話しましたように、当時の医学は今ほど進んでいず、彼女の病を治すことはできませんでした。また、偽医者にだまされ、魔術的な治療を受け、財産を失い、病もさらに悪くなっていったのです。その彼女がイエスのうわさを聞き、イエスの衣にでも触れば病がいやされるのではと思い、群衆にまぎれてイエスに近づき、その衣に触れました。彼女にとっては、いつまたイエスに会えるかわかりません。また、群衆に自分のことが知れたらどうなるかわかりません。彼女は恐れを持ちながら、勇気を持てイエスに近づき、イエスの衣に触れたのです。

29節「すると、すぐに血の源が乾いて、病気がいやされたことを体に感じた。」とあります。イエスは自分のうちから力が出て行ったことを知り、自分にさわった者を捜されたとあります。33節「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべてはなした。」とあります。イエスは彼女に言われました。

34節「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」イエスは彼女の病がいやさえたことが公に認められるために、彼女を群衆から引き出し、彼女の病がいやされたことを群衆の前で宣言されたのです。ここで、イエスが言われた彼女の信仰とはどのような信仰でしょうか。彼女は十二年の間、この病のために苦しみました。彼女はイエスのうわさを聞き、この方ならば、衣に触ることによってこの病がいやされると信じたのです。また、彼女はそのために大きな危険を乗り越えました。彼女は、命がけでイエスの権威と力を信じたのです。その結果、イエスより力を引き出し、病がいやされたのです。

2、三十八年もの間、病に冒された人をいやすイエス(ヨハネの福音書5章1節~9節)

ここに登場する男性の病は、どのような病気なのか、その病名は明かされていません。ただ、彼は体のまひのために自分で動くことができない病であることはわかります。また、このお話の中心は、彼が三十八年もの間この病で苦しめられて来たということです。このベテダの池は特別な池で、欄外に、「主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」とあります。それゆえ、この池の周りには、病人、目の見えない人、足の不自由な人、体に麻痺のある人たちが大勢、横になっていました。彼らは、主の使いが降りて来て水が動かされるのを待っていたのです。彼が、どれぐらい長くその時を待っていたのかわかりませんが、彼も周りの病人と共に、その時を待っていたのです。6節「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしえいることを知ると、彼に言われた。『よくなりたいか。』」イエスはなぜ、彼にそのような事を言われたのでしょうか。彼は、良くなりたくて、この池で横になっているのです。彼は何と答えたでしょうか。7節「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」彼はなぜ、イエスのことばに「良くなりたい。」と言えなかったのでしょうか。7節のことばも、何か、良くなることをあきらめた、失望感を感じさせる言葉のように聞こえます。先ほどの長血をわずらった女性の苦しみは十二年間でした。しかし、彼の病はその三倍以上の三十八年です。彼も初めは良くなりたいと思い、色々な医者に診てもらったことでしょう。しかし、そのかいもなく、三十八年もその苦しみは続き、今は、この池にいても、誰も自分を池の中に入れてくれる者もなく、失望の中、日々を過ごしてきたのです。そんな彼の心の中を知っておられ、彼の奥底に沈められた良くなりたいと言いう希望を引き出すように、イエスは彼に「良くなりたいか。」と声をかけたのです。しかし、彼の答えは、依然として失望した者の答えでした。そこで、イエスは彼に言いました。8節「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」彼はこの言葉にどのように反応したでしょうか。再び、否定的なことばで「できません。」と答えることもできたでしょう。しかし、9節「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩きさした。」とあります。彼はイエスのことばを信じて立ち上がる決心をしました。その信仰が彼の病をいやしたのです。先ほどの長血の女性も「イエスの衣に触りさえすればいやされる」と信じたので、危険を冒してまでイエスに近づいたのです。信じるとは「誰をどのように信じるか」が大切です。長血の女性はイエスにはこの病をいやす力があると信じイエスの衣を触りました。三十八年間病に苦しむ男性はイエスの「起き上がって床を取り上げ、歩きなさい」という言葉を信じて立ち上がったのです。

3、結論

私たちはイエスを神の子と信じています。それでは、イエスのことばを神のことばと信じているでしょうか。時として、私たちは信仰を持っていても、現実の方が大きく見えて、不可能だと神の力を小さく見ていないでしょうか。神は全能の力をお持ちです。しかし、私たちの方がそのことを信じないなら、神の栄光を見ることができません。イエスが故郷で奇蹟を行わなかったのは彼らの不信仰の故だと聖書にあります。彼らは、幼い時のイエスを知っているがゆえに、イエスを同じ人間としか見ることができず、イエスはあえて奇蹟をなさらなかったのです。イエスがガリラヤ湖で説教をするとき、ペテロの舟に乗られました。説教の後、イエスはペテロに深みに漕ぎ出し、網を降ろしなさいと言われました。ペテロは朝から働いても魚が取れなかったこと、また、この時間には魚が取れないことを知っていながらイエスのことばに従いました。するとたくさんの魚が取れました。ペテロはイエスのことばに従わないこともできました。むだだから。しかし、ペテロはそれでもイエスのことばに従いました。するとたくさんの魚がとれたのです。カナの結婚式の時もそうです。結婚式の最中、ぶどう酒が無くなってしまいました。イエスは弟子たちに水がめに水を満たしなさいと言われました。何の意味があるのかと弟子たちは思った事でしょう。しかし、弟子たちがイエスのことばに従うと、その水がぶどう酒に変わったのです。私たちはイエスや神を私たちと同じ有限なものにしてしまい、神の力を制限してしまうことがあります。神とはどのようなお方でしょうか。私たちと同じ有限な存在であるならば、そのような神を信じる価値があるでしょうか。神は無限なお方です。私たちがそのことを信じて、神のことばに従うとき、私たちは神の栄光を見ることができるのです。