神のことば(約束)を信じる信仰

創世記15章1節~6節

アブラムは神のことばに従い、親族から離れ、神の示す地カナンを目指して旅立ちました。この時、アブラムは75歳という高齢でした。そこにアブラムの信仰による決断を見ます。しかし、カナンの地が飢饉に見舞われると、彼は食べ物があるエジプトへと下って行きました。ところが、アブラムはエジプト人を恐れ、妻のサライに妹と偽らせました。アブラムは神に助けを求めず、自分の知恵に頼ってしまいました。しかし、それでもサライはエジプトの王宮に召し上げられてしまいました。それを助けたのは神でした。アブラムは自分の不信仰を認め、最初に祭壇を築いた場所に戻り、主の御名を呼び求めたとあります。

 創世記15章1節「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。『アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。』」

ここで神が言われたアブラムの恐れとは、どのような恐れだったのでしょう。アブラムは神に対してこのように問いかけています。2節「アブラムは言った。『神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がいないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。』」3節「さらに、アブラムは言った。『ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。』」

このことばから、アブラムの恐れとは、自分が子を得ることなく死に、全ての財産が、自分のしもべであるエリエゼルが受け継ぐことになるのかという不安でした。当時、子がいない場合、主人は信頼するしもべに財産を託し、そのしもべは、主人の老後の面倒をみ、主人の最後を看取る責任を負うという約束がありました。4節「すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。『その者があなたの後を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの後を継がなければならない。』」5節「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる。』」神がアブラムに初めに与えられた約束は、創世記12章2節「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」というものでした。このことばの中に、子孫が与えられることが約束されています。また、アブラムがカナンの地に入った時、神はアブラムにこのように言われました。12章7節「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」しかし、依然として子が与えられる兆候は見られません。アブラムとサライはさらに齢を重ね、子が生まれる可能性は低くなりました。神の約束を信じて旅立ったアブラムでしたが、次第に不安になり信仰が揺らいでしまったのです。私たちの人生にも同じようなことが起こります。

信仰が弱まったアブラムに神は何をされたでしょうか。神はアブラムを外に連れ出して、星を見せて、「あなたの子孫は、このようになる。」と言われました。ことばだけではなく、実際にアブラムに星を眺めさせて、あなたの子孫はこのようにたくさん生まれることを約束されたのです。アブラムは星を見て。神の約束を信じたのです。聖書には「それが彼の義と認められた。」と記されています。新約聖書でパウロはこの出来事を通して、信仰による義について説明しています。ローマ人への手紙4章2節~5節「もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何といっていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」パウロはこの個所で、救いは、人の努力や正しさによって得られるものではなく、神を信じる信仰によって与えられることを、アブラハムの信仰を通して説明したのです。

私たちは現実の社会で生きています。私たちには食べ物の事や着る物のことなど将来に対する不安があります。そんな将来に不安を覚える私たちに、イエスはこのように言われました。マタイの福音書6章25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」しかし、私たちは、そのことが頭ではわかっていても、将来に不安を覚え、思い煩う者です。神は自分の将来を恐れ不安に思うアブラムに星を見せて、神の約束の確かなことを示されました。今、神は私たちの信仰を強めるために聖書のことばを与えてくださっています。人間は完全な信仰を持つことはできません。私たちの信仰の歩みは、信仰と不信仰の間を揺れ動いています。それゆえ、神は私たちに聖書を与えてくださいました。私たちは聖書のことばを通して、神の約束を確かなものとすることが出来ます。イエスの処女降誕、復活、再臨。どれも、この世の常識では信じることが出来ないできごとです。しかし、神が全能であることを信じる時、私たちはイエスの処女降誕と復活を信じ、イエスの約束である再臨も信じることができます。聖書は神のことばです。しかし、それを現実の世界で理解しようとするなら、信じることはできません。聖書は神のことばであり、神の約束の書です。その神の全能の力を信じる時、聖書のすべての出来事を神の御業として受け入れることが出来るのです。