神の国(天国)を求めたニコデモ

ヨハネの福音書3章1節~15節

日本人は仏教の影響で、死んだ者は自然に極楽(天国)に入ると漠然と信じています。しかし、キリスト教では、明確に罪ある者はその罪の報いとして罰を受け、イエス・キリストによって罪赦された者だけが、天の御国(天国)に迎えられると教えています。死んだ後のことは誰にもわかりません。死んだ後、自分が天国に入れないとわかっていたら、もっと真剣に人は天国へ入る方法を求めるのではないでしょうか。日本人は罪の重さが分からないゆえに、その部分があやふやにされているように思います。

1、パリサイ派の議員ニコデモ

ニコデモはパリサイ人でユダヤ人の議員であったとあります。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていましたが、彼らには、特別に自治権が与えられ、ユダヤ人に選ばれた議員によって議会が行われていました。ニコデモがその議員の一人であると言うことは、彼が地位と名誉と権力を持つた人物であることがわかります。彼は、誰もが知る有名人でしたから、イエスを訪ねるのに、昼間ではなく、人目の少ない夜にイエスを訪ねたものと考えられます。当時、ユダヤ人議会は、パリサイ派とサドカイ派に分かれていました。サドカイ派は祭司や貴族などで構成され、ローマ政府と近い関係にありました。また、パリサイ派は、自ら神の戒めを守り、民衆にも忠実に律法を守るように教えていました。民衆はパリサイ人を尊敬し指示していました。

2、イエスとニコデモの対話

当時、民衆はイエスを律法の教師と認め尊敬していました。また、イエスの教えを聞くために多くの群衆がイエスのもとに集まっていました。しかし、律法学者やユダヤ教の宗教指導者たちは、イエスを律法の教師と認めず、田舎者扱いして馬鹿にしていました。しかし、ニコデモはイエスの働きを神の働きと認めて、イエスと言う人物がどういう人物かを知るためにイエスのもとを訪れたのです。ニコデモはイエスに言いました。2節「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています、神がともにいなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれもおこなうことができません。」イエスは彼に言われました。3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエスは突然、ニコデモに対して「神の国」について話し出されました。イエスはなぜ突然「神の国」について話し出されたのでしょうか。当時、律法学者たちの間で、どのようにすれば神の国(天国)に入ることができるのか議論されていました。ニコデモ自身もそのことに大きな関心があったものと考えられます。それゆえ、イエスは彼の中にある疑問を察知して、彼の疑問に直接、答えられたのです。ニコデモはイエスの話されたことが理解できずに、イエスに言いました。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか。」ニコデモはイエスが言われた「新しく生まれる」と言うことを、もう一度、生まれなおすことと考えたので、そんなことができますかとイエスに答えたのです。イエスは「新しく生まれる」という言葉を別の言葉に言い換えて、もう一度ニコデモに言いました。5節6節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」イエスはここで、ニコデモに対して、「新しく生まれる」ということを「水と御霊によって生まれる」という言葉に言い換えています。ここで、「水と御霊によって生まれる」と言う言葉の意味について、複数の解釈があります。その中で、分かりやすい解釈は、「水」は洗礼、悔い改めを表し、「御霊」は神の働き、力、恵みを表す意味と説明できます。イエスが言われた最初の言葉「新しく」という言葉も「上から」と訳す言葉が使われています。また、6節の「肉によって生まれた者は肉です。」という言葉も、肉とは人間の力や努力を表すと言葉と考えられます。それゆえ、人間の力や努力はあくまでも人間を高めることはできても、霊的に新しく生まれることはできないと言う意味です。律法学者パリサイ人たちは、律法を守ることによって神に近づき、天の御国に入ろうと考えていました。しかし、イエスは、いくら人間が努力しても、人間の力では神の国に入ることはできないと言われたのです。しかし、ニコデモはイエスのことばの意味が分からず、9節「どうして、そのような事があり得るでしょう。」と答えたのです。

3、青銅の蛇とイエスの十字架

イエスは、霊的な出来事を理解できないニコデモに対して、旧約聖書でモーセが行った青銅の蛇についてお話になりました。その出来事は、民数記21章に記されています。イスラエルの民が、荒野で、食べ物のことでモーセに逆らった時、神はイスラルの民に「燃える蛇を送られた。」とあります。この罪によって多くの者が亡くなりました。イスラエルの民はモーセに蛇を取り除くように神に祈ってくださいと願いました。モーセが民のために祈ると。神はモーセに言われました。民数記21章8節「あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」9節「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗竿の上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」とあります。この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか。大切なことは、神がモーセの作った青銅の蛇を仰ぎ見る者のいのちを助けると約束してくださったということです。そして、その約束を信じて青銅の蛇を仰ぎ見た者はいのちが救われたということです。新約聖書の時代に入って、神は私たちの救いのために、ご自身のひとり子、イエス・キリストを十字架に付けて、いのちを取られました。神は、聖書を通して、イエスを神の子と信じる者は、イエスの十字架の死によって永遠のいのちをあたると約束してくださいました。旧約の時代、モーセが作った青銅の蛇を見た者が救われたように、新約聖書の時代、青銅の作り物の蛇ではなく、神の子イエス・キリスト自身が十字架に付いていのちを犠牲にしてくださいました。イエスの十字架の死が自分の罪の身代わりの死であることを信じるなら救われると神が約束してくださったのです。ヨハネの福音書3章15節「それは、信じる者がみな、人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つためである。」とある通りです。

 

4、結論

ニコデモはこの時、イエスのことばを理解することはできませんでした。後に、イエス・キリストが十字架に付けられて殺された後、アリマタヤのヨセフと共に、イエスの遺体を受け取りに行ったことが記されています。当時、十字架に付けられて殺された者は、呪われた者として人々に忌み嫌われました。しかもイエスは犯罪人として殺されました。その遺体を引き取りに行くと言うことは、その者と関りを持つと言うことです。ニコデモのような議員が犯罪人と関りを持つと言うことは、自分の立場を悪くすることです。最悪の場合、議員の資格を取り消されるかもしれません。彼はそんな危険を冒しても、イエスの遺体を引き取りに行ったのです。ここに彼の信仰が表されているように思われます。

律法学者たちは、一生懸命、神の戒め律法を守ることで、自分を神に認められ天の御国に入ろうと考えました。しかし、イエスは、人間の努力や正しさでは、神の国に入ることができないと言われました。それゆえ、神は、ご自身のひとり子イエス・キリストを人としてこの世に誕生させ、人々の罪の身代わりとして十字架の上でいのちを取られたのです。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに、三日目に復活して、天の父のもとに昇って行かれました。また、神はイエスを神の子と信じる者に永遠の命を与える約束してくださいました。私たちは、自分の力や正しさでは天の御国(天国)に入ることはできません。ただ、神が私たちのためになしてくださった惠、イエスの十字架の死と復活を信じる信仰によって、人は天の御国に入ることができるのです。