神の恵みによる救い

エペソ人への手紙1章1節~12節

エペソの教会はパウロの第二回伝道旅行の際に建てられた教会です。また、彼は第三回伝道旅行の際は、三年もの間エペソに滞在し伝道の働きをしました。この手紙を書いた時、パウロはローマの牢獄にいました。パウロは弟子のティキコにこの手紙を託し、エペソの教会に遣わしたのです。エペソの教会はアルテミス神殿が建つ異教の町に建てられた教会です。この教会に集うクリスチャンの多くが異邦人であり、以前は異教の神々を信じる人々であったと考えられます。パウロはその様な人々にイエス・キリストを宣べ伝えたのです。

 エペソ人への手紙1章4節5節「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定められておられました。」パウロがここで強調していることは、エペソの教会員だけでなく、私たちの救いも、私たちが生まれる前から、(世界の基が据えられる前から)神の一方的な恵みによって定められているということです。そのことは旧約聖書の出来事を通してもわかります。創世記の25章において、イサクの妻リベカは、双子を宿しました。そして、お腹の中の双子がぶつかり合うので不安になり主のみこころを求めたとあります。創世記25章23節「すると主は彼女に言われた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。』」ここで大切なことは、二人がまだ生まれていないのに、神は兄が弟に仕えることを選ばれていたということです。神の選びが私たちの行いによるのであれば、生まれる前から兄が弟に仕えるなど定めることはできません。しかし、主は確かに、二人が生まれる前から兄が弟に仕えると定められたのです。この後、兄エサウが生まれ、弟ヤコブが生まれました。兄エサウは巧みな狩人、野の人となり、ヤコブは穏やかな人で天幕に住んだとあります。族長であるイサクはエサウを愛し、将来自分の後継者にしようと考えていました。しかし、母リベカはヤコブを愛したとあります。ヤコブは狡猾な面があり、兄エサウが猟からお腹を空かして帰ってくると、自分が作っていた煮物と交換に長子の権利を売るように交渉しました。エサウはお腹がすいていたために、長子の権利をヤコブに売ると約束したのです。また、父イサクの視力が弱くなったとき、彼はエサウに特別な祝福の祈りをするので猟に行って獲物をとってくるように命とじました。それを聞いたリベカはヤコブを呼び、兄に成りすまして祝福を奪い取るように勧めたのです。ヤコブは恐れつつも父の前に行き、父をだまして兄の祝福の祈りを奪ってしまいました。これを知ったエサウは弟ヤコブを殺したいほど憎みました。リベカはそれを知り、急いで生まれ故郷の兄ラバンの所にヤコブを送り出したのです。神の計画では、ヤコブは生まれる前からイサクの後継者として選ばれていましたが、イサクは自分の判断で、兄エサウを後継者にと考えていました。リベカは神の計画に従って弟のヤコブが後継者となり、兄エサウがヤコブに仕えると信じていました。しかし、夫のイサクが兄エサウに祝福の祈りをささげようとしたので、ヤコブをそそのかし、兄の祝福を奪わせたのです。神の選びはヤコブでしたから、イサクがエサウに祝福の祈りをしたとしても、神の計画が変わることはなかったでしょう。しかし、リベカが自分の知恵を使ってヤコブをそそのかしたがゆえに、ヤコブは兄の怒りを受け、家を出なければなりませんでした。ヤコブは20年後に故郷に帰りますが、その時には、リベカはすでに亡くなっており、二人は再会することはありませんでした。アブラハムの祝福を受けたヤコブからイスラエルの12部族が生まれ、その家系から救い主イエス・キリストが誕生したのです。エサウの子孫はエドム人としてイスラエルの国と対立する国民となりました。また、旧約聖書のエレミヤ書には1章5節「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」とあります。

一見、神の一方的な恵みによる救いは不公平に見えます。救われる人と救われない人を、生まれる前から定めているとは考えられないことです。しかし、確かに聖書を見るなら、私たちの救いは人間の良い行いによって与えられるものではなく、神の一方的な恵みによります。それは、救われた私たちが自分自身を誇らないためです。私たちが一生懸命聖書を読み、熱心に礼拝を守り救われたのであれば、その人は、自分の努力を誇る者になってしまいます。しかし、何の努力もなく、神の一方的な恵みで救われたなら、人は誰をほめたたえるでしょう。それは、神様だけです。この神の恵みによって誰が救いに選ばれているかは、誰もわかりません。大切なことは、私たちが救いを受けた時、それを自分の力ではなく、神の一方的な恵みとして受け取り、神を感謝することです。まだ救われていない人を見て、あの人は選ばれていないと勝手に判断してはいけません。いつその人が救われるのかは誰もわかりません。それゆえ、一人でも多くの人々が救われるように祈り続けることが大切です。

私たちは先のことを知ることはできません。しかし、神はすべてのことをご存じで私たち一人一人を選んでくださいました。それは、すばらしいことです。また、ただ選ばれただけでなく、5節「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。私たちの選びは、偶然や何の考えもなく選ばれたのではなく、神がご自分の愛と御計画によって選ばれたということです。この教えは、宗教改革者カルバンが強調して教えたことです。長老教会、改革派教会の人々はこの神の選びによる救いを信じています。これは、聖書から導き出された一つの考えです。他の宗派にはそのように考えていないひとたちもたくさんいます。しかし、気を付けなければならないことは、神による救いが一方的な選びの恵みでないとしたら、イエス・キリストの十字架による救いに人間の努力を付け加えることになるということです。確かに、聖書は自分の罪を認めて悔い改めるなら救われると教えています。それゆえ、神の選びではなく、人間が自由意思によって自分の罪を認め、イエス・キリストの救いを信じて救われたと考えたくなります。しかし、自分の罪を認めること、イエス・キリストの十字架によって救われることを信じる信仰をも、神があらかじめその人に定めておられたと考えたらどうでしょうか。大切なことは、神の救いの計画に、私たちは何も付け加えることはできないということです。神による救いは百パーセント神の恵みによる救いです。神はご自身の大きな愛と御計画の確かさによって、私たちを救いの御業に招き入れてくださったのです。それを信じる時、私たちの心の中に大きな喜びが湧き上がってくるのです。