神の権威と病の癒し

マタイの福音書9章1節~8節

 マタイの福音書4章23節「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒された。」とあります。これは、イエスの働きを表したことばです。イエスは福音を人々に宣べ伝えるだけではなく、多くの人々の病を癒されました。イエスが人々の病を癒された理由は二つあります。一つは、イエスの時代まともな医者は少なく、魔術まがいの医者やいかがわしい医者が多くいたことです。人々は病に苦しみ助けを必要としていました。イエスの第一の働きは宣教でしたが、あまりにも多くの病人がイエスに助けを求めて集まって来たゆえに、イエスは人々を憐れみ多くの人々の病を癒されたのです。もう一つの理由は、イエスが神によって遣わされたメシヤ(救い主)であると示すことです。聖書に記された病の癒しの記事は、イエスが神の権威によって人々の病を癒された事実を伝えています。

1、ツァラアト(重い皮膚病)の癒し(マタイの福音書9章1節~4節)

ツァラアトという病は、旧約聖書の出エジプト記の時代より聖書に記されています。イスラエルの民はモーセによってエジプトの苦しみから助け出され、紅海の乾いた地を通ってエジプトから荒野へと出て行きました。モーセの兄アロンと姉ミリアムもモーセと行動を共にしました。しかし、後にミリアムは弟であるモーセがクシュ人の女性をめとっていたことで彼を非難しました。(民数記の12章)実は、ミリアムはモーセ一人だけが民の上に立ち指導することを妬んだのです。その時、主の怒りが燃え上がり彼女はツァラアトに侵されてしまいました。モーセの兄アロンは彼女の罪を赦すようにモーセに嘆願しました。主はモーセに彼女を一週間宿営から外に締め出すように命じました。その後、彼女の病は癒されて宿営に戻されたのです。また、歴代誌第二26章に登場するウジヤという王は、主の神殿に入り香の壇の上で香をたこうとして祭司たちに咎められました。その時、ウジヤの額にツァラアトが現れたとあります。このような出来事から、イスラエルの民にとってツァラアトという病は、罪を犯した者に神が与える罰という意味合いが強く受け継がれたものと考えられます。また、レビ記13章14章には詳しくツァラアトについて書かれ、ツァラアトが癒された場合どのように対応しなければならないかも記されています。

マタイの福音書8章にツァラアトに侵された人がイエスに向かってひれ伏し2節「主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言いました。彼はイエスがただの律法の教師ではなく、イエスに神の権威(罪を赦す権威)がある事を信じて、ツァラアトをきよくしてくださいと願い出たのです。イエスも彼の信仰に応えて3節「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」とあります。またイエスは彼に4節「だれにも話さないように気を付けなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」と言われました。これは、この時点でイエスの権威が公に認められていなかったゆえに、祭司に見せて正式にツァラアトが癒されたことを証明しなさいと言われたのです。

2 中風の人の癒し(マタイの福音書9章1節~8節)

中風という病は、体が麻痺して動かなくなる病で、現在では脳梗塞など脳の障害によって体が麻痺する病と考えられています。しかし、当時としては原因が分からず、ツァラアトと同じように罪を犯し、神から罰として与えられた病と考えられていました。2節「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。」とあります。

中風の人の友人たちはイエスのうわさを聞き、イエスならこの病を癒すことが出来ると信じて、彼を床に寝かせたままイエスの所に運んできたのです。しかし、その場にいた律法学者たちは、イエスが言われた「あなたの罪は赦された」ということばに強く反発を覚えました。3節「すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で『この人は神を冒涜している』と言った。」とあります。4節~7節「イエスは彼らの思いを知って言われた。『なぜ心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが信じるためにーー。』そう言って、それから中風の人に『起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。」とあります。律法学者たちの考えは間違いではありません。人の罪を赦すことは神だけがお持ちの権威です。しかし、ここで大事なことは、その神だけがお持ちの権威をイエスも持っていたということです。それゆえ、中風の人もツァラアトの人もきよくすることができたのです。人々はイエスの権威を見て8節「群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」とあります。

当時、イエス・キリストのことを、律法の教師、また預言者と理解した人は多くいました。イエスは弟子たちに尋ねました。マタイの福音書16章13節「イエスは弟子たちに『人々は人の子をだれだと言っていますか』とお尋ねになった。」14節「彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。』」15節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」17節「すると、イエスは彼に答えられた。『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。』」イエスはこのペテロの告白を褒めました。しかしまた、この言葉が彼から出たものではなく、天の父によるものであるとも言われたのです。この事は、私たちがイエス・キリストを神の子と信じることが大切で、信仰告白は人間の理解を超えた神の力が必要であることを教えています。私たちは聖書のことばを通して、イエスが神の子であり救い主であることを信じています。しかし、現実の社会で生きている私たちには現実の力が大きく見え、神の力を疑う時があります。ルカの福音書5章で、イエスがペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われた時、ペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と答え、網を下ろしました。すると二艘の舟が沈みそうになるほど魚が捕れました。ペテロが言った「夜通し働いたが何一つ捕れませんでした」ということばは事実です。しかし、彼はそれで終わらず、「おことばですので」と言って網を下ろしました。私たちは、ペテロの初めの言葉のように、現実を見てあきらめてしまうことが多いのではないでしょうか。現実がこうだからしかたないと。しかし、信仰においてはペテロがその後に続けたように「おことばですので」と言うことが大切です。現実は、現実として受けとめ、それでもなお、神の権威、神の大きさを認めることが信仰です。信仰が弱い時、神より現実が大きく見えます。しかし、私たちが信仰に堅く立つとき、現実より神の力、権威が大きく見えてきます。現実は変わらなくても、神には現実を変える力があります。それこそが、神の権威であり、私たちの信仰の拠り所なのです。