詩篇51篇1節~19節
詩篇の51篇は「悔い改めの詩」と呼ばれる詩篇です。表題を見ると「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。」
とあります。この出来事は、サムエル記第二の11章と12章に記されています。ダビデはバテ・シェバが入浴しているのを王宮から見てしまいました。ダビデはその美しい女性が誰であるかを調べさせました。そして、ダビデは彼女がウリヤの妻である事を知った上で、彼女を王宮に招き、関係を持ってしまいました。後日、ダビデに彼女がダビデの子を身ごもったことが伝えられました。ダビデは、この罪を隠すために、戦場からウリヤを呼び寄せました。しかし、ウリヤは自分の家に帰ろうとはしませんでした。そこで、ダビデは、将軍ヨアブに彼を戦争の激戦地に送って殺すように手紙を書き、彼を戦場に送り返しました。ウリヤが戦死したことがダビデに伝えられ、彼女の喪が明けるとダビデは彼女を自分の妻として迎え、そして子どもが生まれました。聖書は「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」と記しています。
12章において、神は預言者ナタンをダビデの所に送りました。ナタンは例話を通してダビデの罪を指摘しました。13節「ダビデはナタンに言った。『私は主の前に罪ある者です。』」
ダビデは神の前に自分の罪を認めました。13節14節「ナタンはダビデに言った。『主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。』しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起させたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」
生まれた子は病気になり死にました。しかし、その後、バテ・シェバはもう一度身ごもり、男の子を産みました。ダビデはその子を愛しソロモンと名付けました。そしてその子がダビデの後継者となったのです。預言者ナタンがダビデの罪を指摘したとき、ダビデは王様ですから、ナタンを殺すこともできました。しかし、ダビデは神の前に自分の罪を認めて悔い改めたのです。神は彼の悔い改めを受け入れ、最初に生まれた子の命は奪いましたが、ダビデとバテ・シェバに新しい子を与えられました。ダビデは、その子を愛したとあります。ダビデは、新しく生まれた子を通して、自分の罪が赦されたことを感じたのではないでしょうか。
「悔い改める」とは、自分の罪を認めることだけではありません。「悔い改め」とは、新約聖書ではギリシャ語でメタノイアという言葉が使われ、その意味は心の転換です。それゆえ、聖書解釈学においては「悔い改める」とは、自分の罪を認めて、方向転換をすること、向きを変えることと言われています。新約聖書において、バプテスマのヨハネもイエス・キリストも宣教の初めに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と呼び掛けています。この時、彼らがユダヤ人に求めた悔い改めとは、「自分たちはアブラハムの子孫だから罪がない」という考え、つまり選民意識を捨てることでした。マタイの福音書3章9節10節「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」このように言って、バプテスマのヨハネは律法学者パリサイ人たちの教えを否定しました。
私たち日本人には、選民意識という考えはありません。しかし、日本人は仏教の影響で、死んだ人は天国に迎えられると漠然と信じているのではないでしょうか。イエスは天の御国についてこのようなたとえ話をされました。マタイの福音書22章2節~14節「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしが、彼らは来ようとしなかった。それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください。」ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。』」このたとえ話で、最初に婚宴に招かれたのは、ユダヤ人たちでした。しかし、彼らは王の招きを拒否しました。イエス・キリストは始めユダヤ人の救いのために、神から送られ、人として誕生されました。しかし、ユダヤ人たちは律法を守ることに固執し、イエス・キリストを救い主として受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。そこで、神はこの恵みによる救いを、異邦人や罪人たちに与えられました。そのことが、王がしもべたちを大通りに行かせて、良い人でも悪い人でも宴会に招いたことで表されています。しかし、問題なのは、そのように招かれた人の中に婚礼の礼服を着ていない人がいたことです。当時のしきたりとして、礼服をもたない人のために王室で用意された衣装があり、招待客はそれを着て宴会に出ることが決められていました。しかし、彼はそれを拒んで礼服を着ないで婚礼に参加したとのです。結局、彼は外の暗闇に放り出されることになりました。この婚礼の礼服はイエス・キリストによる救いを表しています。私たちが天の御国に招かれるのは、私たちの行いの正しさや人格の清さではありません。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって罪赦された者となり、天の御国に招かれるのです。そのために、第一に必要なことが自分の罪を認め悔い改めることです。ここでいう悔い改めとは、自分の罪を認めイエス・キリストの赦し以外に救いがないことを信じることです。ここで、もう一つ考えることは、神が私たちの悔い改めを受け入れて下さらなければ、だれも罪の赦しを受けることが出来ないということです。神が正しい神だけであるなら、私たちは自分の罪のゆえに裁かれるしかありません。しかし、神は愛の神でもあります。それゆえ、神はイエス・キリストの十字架の死を通して救いの道を備えてくださいました。それが、恵みによる救いです。詩篇の記者は自分の罪を認め、神に赦しを求め、自分の心を清くしてくださいと願っています。ダビデも姦淫という罪を犯しましたが、悔い改め素直に自分の罪を認め神に赦しを求めました。私たちは法的に罪は犯していないかもしれませんが、神の前ではすべての人が罪人であると聖書にあります。まず、自分の罪を認めて悔い改め、神からの赦しを得ましょう。神は、私たちの砕かれた心を喜んで受け入れ、赦してくださいます。なぜなら、神の愛は私たちのすべての罪を覆うほど大きな愛だからです。