罪の重さとイエスの赦し

ヨハネの福音書8章1節~11節

今日は、姦淫の現場で捕らえられた女性の罪の赦しについて考えます。しかし、今日のお話の主役は姦淫の現場で捕らえられた女性ではありません。今日のお話の中心は、彼女の周りにいる群衆であり、あなたが主役です。あなたが主役と言われるとドキッとします。全世界の人の救いとか、日本人の救いというと漠然として真剣に考えることはありません。しかし、あなたの問題ですと言われると、私たちは真剣に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

1、姦淫の罪について

ユダヤ教では、姦淫の罪は重く、石を投げられて殺されるという、重い刑罰を受けなければならない重罪です。しかし、彼女が捕らえられたのは、彼女を裁くためではなく、イエスを罪におとしめるために仕組まれた、律法学者とパリサイ人たちの陰謀によることでした。この時、イエス・キリストの人気は高まり、人々はイエスの話を聞こう大勢の者がイエスの周りに集まって来ました。それを見た、律法学者、パリサイ人たちはユダヤ教にとってイエスの教えが脅威となり、何とか、イエスを陥れ、イエスの人気をおとしめようとしてこの陰謀が行われたのです。この場面で、イエスが彼女の罪を赦すべきだと言えば、律法学者パリサイ人たちは、イエスが神の戒め律法を守っていないと議会に訴え、イエスを罪に定めることができます。また、彼女を死刑にするべきだといえば、ユダヤ人は勝手に死刑の執行をする権限がローマ政府から与えられていませんでしたから、イエスのことばをローマ政府に報告することによって、反逆者としてローマ政府に訴える口実を得ることになります。それゆえ、どちらに答えても、イエスを罪に定めることができる巧妙な罠だったのです。この時、イエスは身をかがめて地面に何かを書いておられたとあります。イエスは、明らかに彼らの悪意を見抜いて、このようなことに関わりたくないと言う態度を取られたのです。

2、群衆の罪について

しかし、彼らが必要に問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われました。7節「あなた方の中で、罪のない者が、まずこの人に石をなげなさい。」群衆はこのことばを聞いてどう思ったでしょうか。今まで、群衆は姦淫を犯した彼女の問題だと思っていました。この中のだれもが、彼女は石を投げられて殺されるべきだと考えていたのです。ところが、イエスのことばによって、一人一人が神の前に引き出されたのです。群衆は一人一人自分の罪のことを考えたことでしょう。ある者はすでに石を握って彼女に投げつける準備をしていたかもしれません。自分は彼女に石を投げつける権利がある正しい人なのか。誰もが自分の行動を顧みたことでしょう。その結果、9節「彼らはそれを聞きくと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

とあります。不思議なことに、イエスを陥れようとした律法学者パリサイ人たちも去って行ったと言うことです。彼らも、自分の罪が示され、この場にいることができなかったのです。

3、あなたはどうですか

もし、私たちがこの場にいたとしたら、私たちは彼女に石を投げつけることができたでしょうか。ここで、主役は、あなたになります。あなたは自分のことを罪人と認めるのか、それとも、罪はないと否定するのか。私が、教会に通い始めた頃、自分の罪の大きさが分かりませんでした。罪が無い完全な正しさを持った者とは思いませんでしたが、罪人と言われるほど悪い人間だとは思いませんでした。さらに、イエスを十字架に付けるほどの罪を持っているなど考えられませんでした。それゆえ、イエスの十字架と自分との関係がわかりませんでした。それから、しばらくして聖書の学びに参加するようになりました。そこで、聖書が教える罪が、この世の法律にかかわるだけではなく、神は心の中の罪をも罰する方であることを学び、いかに自分が神の前で罪を重ねて来たかを教えられました。しかも、その罪を赦すために、神の子イエスが,あんな悲惨な十字架の刑を自ら受けられたことを知り、心が痛みました。そして、この罪を赦すために、イエスが十字架で死なれたこと、また、このイエスの他に、救いの問題を解決方法がないことを知り、自分の罪を認め、悔い改め、イエスの名によって洗礼を受けたのです。

4、結論

イエスは最後に彼女に11節「わたしもあなたにさばきを下さい。」と言われました。イエスはこの時、唯一、罪のないお方でしたから、彼女に石を投げる権利を持ったお方でした。しかし、そのイエスが「さばきをください」と言われました。それだけではなく、多くの人々の罪を赦すために、自ら十字架を負われ、いのちを犠牲にされたのです。世界中には、多くの宗教があり、神々が存在します。しかし、罪人を赦すために自ら命を犠牲にされた神はイエス・キリストだけです。これがキリスト教の特徴であり、聖書の中心のメッセージです。日本では、罪の問題を軽く考え、手を水で洗って清める。また、滝に打たれて身を清めることができると考えます。しかし、水では、体の汚れは洗い流せても、自分の罪を取り除くことはできません。旧約聖書の時代、神は動物の血といのちを祭壇にささげることによって罪を赦すと約束してくださいました。それは、罪が赦されるために人の罪の身代わりに、動物のいのちと血が必要なことをイスラエルの民に教えるためでした。しかし、動物の血といのちでは人の罪の身代わりとなることはできませんでした。それは、あくまでも、人の罪の重さを教えることであり、罪の赦しが、人の子イエス・キリストによって完全になされることを教えるためでした。人のいのちも尊いいのちですが、罪を犯した人間のいのちでは、人の罪を贖うことはできません。それゆえ、神の子イエス・キリストは、人として生まれ(罪のない人として誕生し)人々の罪の問題を解決するために、十字架の上でご自分のいのちをささげられたのです。罪のない、神の子が罪人の身代わりとしていのちを犠牲にされたのです。しかし、ユダヤ人たちはそれを信じることができませんでした。偉大な神が人となり、罪びとの身代わりになるなど信じられなかったのです。私たち日本人も神がそのような犠牲を払うなど信じられないことです。しかし、人の罪の重さを考える時、それ以外に方法がなければ、神はご自身のいのちを犠牲にするほど、私たちを愛してくださいました。神の愛は私たち罪人を救うほど大きな愛です。私たちが自分の罪の大きさに気付き、イエスの愛を信じる時、私たちの罪は赦され、天の御国に迎えられるのです。