マルコの福音書8章27節~38節
先週は、パリサイ人たちが天からのしるしをイエスに求めた所から学びました。彼らがイエスに求めた天からのしるしとは、「救い主、メシア」としてのしるしのことです。しかし、イエスは嘆息して、今の時代はしるしは与えられないと言われました。なぜ、イエスは嘆息されたのでしょうか。それは、今まで、イエスはメシアとしてのしるしを何度も示してきたにもかかわらず、彼らがそれをメシアのしるしとして理解しようとしなかったからです。彼らが求めた救い主、メシアはローマの軍隊を追い出し、ユダヤの国を独立させる、ダビデのような勇敢なメシアでした。それは、パリサイ人たちだけではなく、ユダヤ国民全体、弟子たちも救い主メシアに対してそのようなイメージを持っていたのです。イエスはそのために、神が遣わされるメシアがどのような者であるのか、また、メシアを迎える私たちがどのような態度を持てばよいのかについて弟子たちにお話になられたのです。
1、ペテロの信仰告白(27節~33節)
イエスは弟子たちの信仰を試すために、弟子たちに質問しました。27節「人々はわたしをだれだと言っていますか。」彼らは答えました。28節「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言っている人たちもいます。」人々の意見を総合すると、群衆の評価の多くは、イエスを旧約聖書に登場した、偉大な預言者に匹敵する預言者だと言う評価でした。そこで、イエスは今度は29節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。ペテロがイエスに答えました。「あなたはキリスト(メシア)です。」それに対してイエスは彼ら言われました。30節「するとイエスは自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。」とあります。なぜ、イエスは彼らに誰にも言わないように戒められたのでしょうか。それは、このペテロの告白が、彼自身から出た告白ではなかったからです。マタイの福音書にも同じ場面がありますが、この場面でイエスはペテロに対して、このように言っています。マタイの福音書16章17節「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」バルヨナ・シモンとは、イエスが彼にペテロ(岩)という名を与える前の名前です。また、「血肉」とは、人間の考えと言う意味です。イエスは、この信仰告白が、ペテロの考えから出たものではなく、天におられる父(神)によって与えられたものであることを示したのです。そこで、彼らの間違った考えを人々に伝えないように、弟子たちを戒められたのです。また、イエスは31節で、正しいメシアの姿を弟子たちに教えられました。31節「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえられなければならないと、弟子たちに教え始められた。」イエスは「メシア」という言葉を使わないで「人の子」という言葉を使われました。なぜなら、ユダヤの人々にとって「メシア」という言葉は、ユダヤをローマからの支配から助け出す偉大な指導者というイメージを持っていたからです「人の子」という言葉は、旧約聖書のダニエル書に登場する言葉で、世の終わりに雲に乗って現われる救い主を指しています。イエスは、自分はローマの支配からユダヤを助ける者ではなく、神から遣わされ、神によって一切の権威が与えられた者であることを表すために「人の子」という言葉を用いられたのです。しかし、イエスの話を聞いたペテロは、イエスをいさめたとあります。マタイの福音書では16章22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とペテロはイエスをいさめています。尊敬する師であるイエスがそんな悲惨な最期を迎えるわけがないとペテロは確信していたのです。しかし、イエスはペテロを叱って言われました。33節「さがれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ここにペテロを含む弟子たちの考えが示されています。先ほど、ペテロはイエスを「あなたはキリストです。」という立派な信仰告白をしました。しかし、それは、自分から出た告白ではなく、父なる神からの告白でした。依然としてペテロにとって、イエスはダビデ王のような存在であってほしいと言う考えがあったのです。また、その考えは、イエスを十字架の死から遠ざけることであり、それは、神の計画に逆らうことです。また、その考えはサタン的な考えであると、イエスは強い口調で、ペテロに対して、下がれサタンとペテロを叱責されたのです。
2、自分の十字架を負ってイエスに従う(34節~38節)
イエスは、この後、律法学者や祭司長たち長老たちから苦しみを受け殺され、三日目によみがえられることを弟子たちに教えました。そして、自分に従う者に対して、教訓を与えました。34節「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」イエスに従うとは、自分の欲望や願いを捨てることです。弟子たちは、イエスがユダヤの国の王に就任すれば、自分も高い地位に付けると考えていました。それゆえ、そのような考えや欲望を捨てることです。それは、自己中心ではなく、神中心に生きると言うことです。また、自分の十字架を負うとは、神の計画、神より与えられた使命を背負うということです。神よりイエスに与えられた使命は、この世を王として支配することではなく、人々の罪の身代わりとして十字架の上で死ぬことでした。イエスはそれを知り、最後まで神の計画に従って生き、十字架の死にまで従われました。神は私たちにいのちを与えられたと共に、私たち一人一人にも使命を与えてくださいました。私たちは一人で自分の十字架を背負うわけではありません。イエスはマタイの福音書11章28節~30節でこのように言われました。「すべて疲れた人、重い荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」私は、東京で会社を経営したいと考えていましたが、クリスチャンになり、神の私への使命が、牧師になり、人々に福音を伝えることだと知り、その夢を捨てて、神の御心に従って牧師になりました。ここまで、私一人で頑張って来たわけではありません。神の助けによってここまで来ることが出来ました。自分の十字架を負うと言うことは、一人で苦しみを背負うことではありません。神が共にいてくださるからこそ、その十字架を背負うことが出来るのです。すべての人が、牧師、宣教師になることが、神の使命ではありません。神は、一人一人にふさわしい使命を与えてくださいます。私たちが自らその道に歩むことが自分の十字架を負ってイエスに従うことです。時としてその道は、自分のいのちを失う道かもしれません。ペテロはまさに、イエスのために自分のいのちをささげました。35節から言われている「いのち」ということばを「永遠のいのち」という言葉に変えるならば、その意味がわかります。35節「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」自分のいのちを救おうと思う者はそれ(永遠のいのち)を失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれ(永遠のいのち)を救うのです。」と読み替えるとその意味が分かります。ペテロが自分のいのちを惜しんで、十字架への道から逃げたならば、彼は永遠のいのちを失っていたことでしょう。ペテロが、イエスのため、福音のために自分のいのちを失うことによって、ペテロは永遠のいのちを持つ者となり、天の御国に迎え入れられたのです。35節36節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょか。」この世のいのちにも価値があります。しかし、永遠のいのちはそれよりも何百倍の価値があります。人はどんなに頑張って生きても百歳~百十歳が限度です。しかし、永遠のいのちは、死んでから先も永遠です。しかも、天の御国においての永遠です。全世界を得ることやこの世の富を持つことに勝る喜びです。イエスは、神と富に同時に仕えることはできないと言われました。すべての人の富は、死と共に失われ裸で、神の前に立つと言われています。私たちはどのような姿で神の前に立つのでしょうか。自分の罪によって神より裁きを受ける者なのか、イエスによって罪赦された者として立つのでしょうか。私たちはこの世で生きている間に、それを決断しなければならないのです。