マルコの福音書4章26節~41節
先週は種まきのたとえから学びましたが、今日は、「神の国」のたとえ話と、湖で突風により、舟が沈みそうになった出来事から学びます。
イエスはここで、「神の国」について二つのたとえ話をされました。
1、神の国はどのようにして誕生するか。(26節~29節)
聖書において、「神の国」という言葉は、二つの意味で使われています。一つは、「天の御国」もう一つは「神の支配」という意味です。この場面で、マルコは「神の国」を「天の御国」の意味で用いています。「天の御国」はいつ来るのでしょうか。ヨハネの黙示録によると、世の終わりが来て、最後の審判の後、新しい天と地が神のみもとから、天から降ってくると記されています。また、イエスはその前兆として、戦争や飢饉、自然災害などの後に訪れると弟子たちに説明しています。世の終わりの時は、神が定めた時であり、私たちには教えられていません。それゆえ、イエスは目を覚ましていなさいと言われました。イエスはマルコの福音書4章26節~29節で、「神の国」について、植物の成長になぞらえて説明しています。植物が成長するのも順番があります。初めに、人が地に種をまきます。それから、種は、人知れず、実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すると鎌を入れ収穫の時が来ます。人がなすことは、種をまくだけで、実を結ばせるのは神の働きです。それと同じように、私たちがなすことは、イエス・キリストを宣べ伝えることです。後は、神が教会を成長させ、神の定めた時に、世の終わりが訪れます。神は、一人でも多くの人が救われるように、その日を忍耐をもって待っておられるのです。
2、からし種のたとえ(30節~32節)
イエスは「神の国」教会の成長を「からし種」にたとえて説明されました。「からし種」は砂粒のように小さな種ですが、成長すると2~3メートルの木に成長します。教会の初めも、イエスと数人の弟子たちから始められました。それが今では、世界中に広がっています。それは、人間の力によってでしょうか。確かに、世界宣教はパウロによってはじめられましたが、パウロを助け導いたのは神の働きでした。ここでも、成長させるのは、神の働きであることが示されています。アライアンスの宣教師たちが、アメリカから日本に来られたのが、明治の終わり頃、大正の初めごろだと言われています。彼らは、四国や広島から宣教の働きを始めました。当時の、四国や広島の人々は、アメリカ人を見たこともなかったでしょう。宣教師たちは住む家を借りるのも大変だったと聞いています。路傍伝道をしていて、石を投げられたり苦労も多かったようです。それでも、彼らの働きにより救われる人が起こされ、教会が建てられていきました。現在、日本アライアンス教団では、三十四の教会と四つの伝道所があります。また、アライアンスの教会は世界中に広がっています。また、世界中にいくつの教会があるでしょうか。それも、初めは小さな働きでした。弟子たちは、教会がこのように世界中に広がると思っていたでしょうか。まさに、教会はからし種のように広がって行ったのです。
3、風と波を静めるイエス・キリスト(35節~41節)
この出来事は私たちに何を教えているのでしょうか。
(1)イエスの権威
ここまで、イエスは、ツアラアトの人をいやし、中風の人をいやされました。当時、ツアラートや中風などの重い病は、罪を犯した者に下された神の裁き(神から与えられた罰)と考えられていました。それゆえ、ツアラアトや中風などの病がいやされるためには、その人の罪が赦されなければ治らない病とされていました。その様な状況で、イエスがツアラアトの人をいやし、中風の人がいやされたということは、イエスに人の罪を赦す神の権威があることを証明し、マルコはそのことを通して、イエス・キリストが神の子であることを伝えようとしているのです。
(2)風と波を静めるイエスの力(権威)
当時、病をいやしていたのは、イエスだけではありません。他の宗教でも、神々に貢物をささげ、呪文を唱えることによって、病をいやすということは広く行われていました。モーセなどは、神の力によって、紅海を二つに割り、イスラエルの民は海の乾いた地を歩いて、対岸へ渡って行きました。それは、モーセの力ではなく、神の力による奇跡でした。しかし、イエスは神に祈って波や風を静めたわけではありません。イエスは風をりつけ、波に「黙れ、静まれ」と命令されただけです。そこに、他の預言者とイエスの違いがあります。人の病をいやすことや、人を驚かせるような奇跡は、預言者や他の神々に仕える者たちにもできる奇跡です。しかし、自然の力を支配するのは、人間の力を超えた、神の権威と力が必要です。この奇跡を体験するまで、弟子たちはイエスを偉大な預言者と信じていました。しかし、弟子たちは、イエスが人間を超えた権威、力をお持ちの神の子とまでは理解することが出来ませんでした。それゆえ、この船での出来事で、彼らは、恐れて取り乱し、イエスに助けを求めたのです。イエスにとって、自然を自由に従わせることは、難しいことではありませんでした。それゆえ、イエスはどんなに波が荒れ、風が強くなっても恐れることはなかったのです。しかし、弟子たちは自然の力を恐れ、信仰を忘れ、取り乱してしまったのです。イエス・キリストはどのようなお方でしょうか。彼は私たちと同じ人間だったでしょうか。確かに、イエスは神の姿を捨てて、人として誕生されました。しかし、イエスは私たちと同じ肉体は持っても、本質は神の子でした。それが、処女降誕の意味です。イエスは神の子ゆえに、十字架に付けられて殺されましたが、死より三日目に復活されました。イエスが、私たちと同じ人間であったら、死より復活されることはなかったでしょう。イエスとは誰であるか。これがマルコが私たちに伝えようとしている、マルコの福音書の中心です。イエスとは、神の子であり、神と同等の権威と力を供えられたお方です。私たちは、そのような方を主(主人)として信じる者です。それであるならば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。アブラハムは、初め、エジプトを恐れ神を信頼しなかったゆえに、大きな失敗をしてしまいました。しかし、彼は、悔い改めて神から離れることはありませんでした。その後も、アブラハムは失敗しつつ、成長していきました。私たちも同じです。私たちは完全な信仰をもつことはできません。不信仰な思いや、失敗をしない完全な人はいません。神はそれゆえ、私たちに悔い改めという恵、赦しを与えてくださいました。弟子たちは、この後も、失敗を繰り返しました。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も自分がイエスの弟子であることを否定しました。それでも、イエスは彼を捨てることなく、悔い改めに導き、彼を立ち直らせてくださいました。私たちもペテロやアブラハムと同じ弱さを持つものです。それでも、イエスは私たちを捨てることなく、忍耐をもって助けてくださいます。その、イエスの愛ゆえに私たちは今も、イエス・キリストを主と告白して、イエスについて行くことが出来るのです。