農夫たちに殺されたぶどう園の息子

マルコの福音書12章1節~12節

前回、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがイエスの所にやって来て「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」とイエスを詰問しました。それに対してイエスは「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」と逆に彼らに問い返しました。しかし、彼らはイエスに答えることが出来ませんでした。なぜなら、彼らはバプテスマのヨハネを預言者と認めなかったが、群衆は彼を預言者と認めていたからです。彼らは群衆を恐れ、結局「知りません」と答えることしかできませんでした。このころから、イエスと祭司長たちや律法学者たちとの対立は激しくなり、彼らのイエスへの憎しみが増していったのです。

「ぶどう園のたとえ」(1節~12節)

ユダヤ人にとってぶどう酒は一般的な飲み物でした。また、町のいたるところにぶどう園は存在していたと考えられます。聖書の中でも、ぶどう園やぶどう酒のことを、何か所か目にすることが出来ます。それほど、ぶどうやぶどう酒は彼らの生活に欠かせない食べ物であり飲み物でした。1節「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。」とあります。主人はすぐにぶどう酒を作れる準備をして、それを農夫たちに貸して旅に出ました。2節「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。」3節「ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も待たせないで送り返した。」とあります。ぶどう園の主人は驚いたことでしょう。まさか農夫たちがそのようなことをするとは思いもしなかったことです。4節「そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り辱めた。」5節「また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。」とあります。主人がこうも何人も、しもべを彼らのところに遣わしたのは、このたとえ話に出てくる主人が神を表しているからです。このたとえ話で、ぶどう園はイスラエルの国を表し、農夫たちは、イスラエルの国の指導者たちを表しています。神は忍耐をもって、しもべ(預言者)を遣わしましたが、それは、彼らが悔い改めることを期待してのことでした。しかし、イスラエルの国の指導者たちは、悔い改めることを拒み、彼らを迫害し、預言者を殺してしまいました。6節「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。」とあります。この個所は、神がイエスを人として誕生させた目的を表しています。神がイエスをこの地上に送られたのは、彼らが自分たちの罪を認め、悔い改めて、イエスを救い主と認め、神との関係を回復するためでした。ところが、7節「すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』8節「そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。」イエスの人気が高まるにつけて、彼らはイエスに対して憎しみと恐れを強く持つようになりました。彼らは、自分たちの教えを守るために、イエスを捕らえ、偽証人を立て、イエスを罪人として裁き、死刑の判決を下しました。そして、ローマ総督ピラトに訴え出て、イエスを犯罪人として十字架に付けて殺してしまいました。9節「ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」10節11節「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」これは、詩篇118篇22節23節のことばです。ここで、「家を建てる者たち」とは、イスラエの国の指導者を指しています。また、「捨てた石」とは、イエス・キリストを表しています。「要の石」とは、家を建てる時の土台の基準となる大切な石のことを指しています。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石になった」とは、ユダヤ人が殺した、イエス・キリストが新しい救いの基となったという意味です。「これは主がなさたこと。私たちの目には不思議なことだ。」とあります。イエスの十字架の死は、祭司長たちや律法学者たち長老たちが計画したことでした。しかし、その背後で神の計画でもありました。神は、ご自身のひとり子イエス・キリストを十字架で殺し人々の罪の身代わりとされたのです。聖書を読めばそのことがよくわかります。イエスは何度も十字架の死を避けることはできました。裁判の席においても、自分が神の子であることを認めなければ、彼らも、イエスに死刑の判決を下すことはできなかったのです。あの場面を読めばだれでもわかるはずです。しかし、イエスはご自分が神の子であることを認めました。当時、ユダヤの国では、自分を神、神の子と認めることは、神を冒涜することで、死罪にあたることはだれでも知っていることでした。イエスはそれなのにあえて、自分が神の子であることを認めたのです。イエスは、彼らに捕らえられる前、ゲッセマネの園で、汗が血のように流れるほどに、父なる神に祈ったとあります。イエスはそこで、ご自分が死ぬことが神の御心であると確信して、彼らに身を委ねられたのです。つまり、イエスはご自分が無罪で殺されることが神の御心であると確信して、十字架の道を歩まれたのです。そのことは人間には理解できないことです。誰が、自分の一番大切な子を殺させるでしょうか。また、誰が平気で、無罪で自分の命を犠牲にすることができるでしょうか。それは、すべて私たちを罪の刑罰から助け出すためでした。私たちの罪はそれほど重いということです。人間は自分の罪の重さがわかりません。それゆえ、手を洗い、体を洗うことによって清められると考えています。もし、本当に、水で洗って罪が清められるのであれば、イエス・キリストが誕生する必要はありませんでした。また、十字架に付けられてあれほど悲惨な死に方をする必要もありませんでした。罪が私たちの目に見えるならば、私たちがどんなに罪深い者であるかわかるでしょう。ユダヤ人たちは律法があるゆえに、一生懸命律法を守ろうと努力しました。しかし、結局、彼らは外側(見える部分)だけを守ることで満足してしまいました。罪は人間が決めるものではなく、最後の審判を行う神が定めることです。聖書はすべての人が罪を犯したとあります。神の目に罪のない人はだれもいません。それほど、神の基準が高いということです。誰がこの神の基準に達することが出来るでしょうか。誰もいません。それゆえ、イエス・キリストは生まれ、人々に捨てられ(十字架で殺され)要の石になったのです。また、死より復活されることによって救いを完成されたのです。イエス・キリスト以外に救いはないと聖書は私たちに教えています。イエスは神の子であり、私たちの救いを完成されるために、ご自分の命を犠牲にされました。これは、神の計画であり、人間の目には不思議なこととしか理解できないことなのです。