迷える羊を捜し出す羊飼いの話

ピレモンへの手紙1節~17節

ピレモンへの手紙は、牧会者パウロがピレモンへ書き送った個人的な手紙です。初めこの個所を読んだとき、どうしてこの手紙が聖書の中に含まれたのか不思議に思いました。パウロはたくさんの手紙を教会や弟子たちに書き送りました。しかし、そのどの手紙も、教会に対して書かれた手紙、また、教会の責任者(牧会者)への励ましと教会を建て上げるための助言を含んだ手紙となっています。ところが、このピレモンへの手紙は、パウロの個人的なお願いを伝える手紙となっています。そのお願いとは、ローマの獄中で知り合ったオネシモのことでした。

1、パウロとオネシモの関係

この時、パウロは裁判のために、ローマの監獄に囚われていました。しかし、ある程度の自由が与えられ、誰とでも自由に対面できる状態にあったようです。オネシモは以前、ピレモンのもとで働く奴隷でした。ところが、彼はピレモンの家から逃亡し、ローマの町に身を隠していたのです。獄中のパウロとオネシモがどのように出会ったのかわかりませんが、オネシモは獄中にいるパウロと出会い、彼の世話をするようになりました。パウロはオネシモのことを10節「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」と書いています。また11節「今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。」また、12節「彼は私の心そのものです。」と書いています。このことばの中に、パウロのオネシモに対する愛情が表されえています。当時、逃亡奴隷が捕らえられると死刑に処せられていました。パウロは、オネシモを逃亡奴隷という危険な立場で、自分の近くに置くよりも、この彼の命を助けるために、主人であるピレモンのもとに送り返し、彼の罪を赦し、オネシモを奴隷としてではなく、同じキリストにある同労者としてオネシモを受け入れてくれるようにピレモンにお願いの手紙を書き送ったのです。

2、パウロとピレモンの関係

ピレモンはお金持ちで大きな家に住んでいました。当時の教会は大きな建物に集まって礼拝するスタイルではなく、信徒のリーダーの家に集まって礼拝を守っていました。それを家の教会と呼びます。ピレモンはそのリーダーの一人でした。ピレモンがどのようにしてキリスト者になったのかわかりませんが、19節「あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。」という言葉から推察すると、ピレモンは、過去にペテロから教えを受けたか、パウロによって救いに導かれたのではないかと考えられます。このように、パウロとピレモンが師弟関係にあるとするなら、パウロはピレモンに対してお願いではなく、命令することもできました。しかし、パウロはあくまでもピレモンに対して、同労者として尊敬し、自発的にオネシモの罪を赦し、彼をキリストにある兄弟として受け入れてほしいとお願いしているのです。ここにパウロの牧会者としての姿を見ます。

3、パウロの性格と信仰

パウロとはどのような人でしょう。以前、彼は激しくキリスト者を迫害する者でした。しかし、彼は、ダマスコに行く途中で復活されたイエスと出会い、彼は自分の罪を認め、悔い改めてクリスチャンとなり、異邦人の救いのために働く、宣教師になったのです。パウロは、激しい性格の持ち主でした。それゆえ、神のためと思い、キリスト者を迫害したのです。また、二回目の伝道旅行の時、バルナバはマルコを連れて行くことを主張しますが、パウロは、第一回目の伝道旅行の時に、途中で帰ってしまったマルコを連れて行くことに反対しました。二人は激しく対立し、バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて、分かれて伝道旅行に出かけました。

また、アンテオケ教会にて、パウロやペテロ達ユダヤ人は、異邦人と共に食事をするようになりました。ところが、エルサレムからユダヤ人たちが来ると、彼らを気にして、ペテロたちは異邦人たちから身を引き、共に食事をしなくなってしまいました。(ユダヤ教では異邦人と食事をしてはいけない決まりがありました。)それを見たパウロは多くの人の前で激しくペテロを非難したとあります。ペテロは教会の頭的存在です。それでも、正しくないと思うと、遠慮なく人前で責めたとあります。パウロはそのように激しい性格の人でした。後の、パウロはマルコのことを役に立つと、彼を評価する言葉がテモテへの手紙第二に記されています。キリスト者としてパウロも成長し、牧会者にふさわしい性格を身につけて言ったのかもしれません。少なくともこのピレモンへの手紙を読むと、パウロのオネシモに対するあたたかな配慮を見ることができます。ピレモンへの手紙は、牧会者としてのパウロの本当の姿を伝えるために聖書の中に神のことばとして加えられたのかもしれません。

4、迷える子羊

ピレモンへの手紙を通して、イエスのたとえ話、九十九匹の羊を置いて、失われた一匹の羊を捜しに行く羊飼いの話を思い出しました。ルカの福音書15章4節~7節「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野にのこして、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」この話をしたとき、ある人が、それでは、九十九匹の野に置き去りにされた羊がかわいそうだと言った人がいました。しかし、このたとえ話の中心は、九十九匹の羊ではなく、一匹の失われた羊を捜しに行く羊飼いの姿が中心なので、それ以外のことを考えると、イエスが伝えようとした意図から外れることになってしまいます。また、イエスは、この迷える子羊こそ私たち一人一人のことですと教えておられるのです。私たちは、自分で努力して、神を捜し出すのではなく、神が私たちに近づいてくださり、救いの恵みを与えてくださるのです。私たちはオネシモのように、神から遠く離れた者でした。しかし、神はオネシモを導き、パウロと出会わせてくださり、オネシモは新しくクリスチャンとして生まれ変わったのです。私たちも同じではないでしょうか。神は今日も神から遠く離れた、私たちを捜し出し、キリストのもとへ導いてくださいます。私たちが神を見出したのではなく、神が私たち失われた者を捜し出して、神のものとしてくださるのです。それが、福音であり、恵みにより救われると言うことなのです。