「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」
コリント人への手紙 第一 11:29
富める市民と貧しい労働者(奴隷)が混在するギリシャ世界では、その貧富の差が教会内において表れてしまうことがありました。コリント教会はその一例で、富んでいる人々は食事を持ってきて我先にと食事をし、酔っている者もいた一方で(21節)、仕事が終わってから合流する貧しい人々は、愛餐の席で食べるものがないという状況になっていたようです。「神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。(22節)」という言葉は、そのような状況を戒めています。この文脈を踏まえて上の29節を見ると、この「みからだ」は、裂かれたイエス様のみからだであると同時に、キリストのみからだなる教会を指していると解釈することも出来ます。神の教会を軽んじて、「自分さえよければいい、まわりの人はどうでもいい」という姿勢で臨んでいるなら、それは自分自身に対する裁きを食べていることになるのです。
