2020年2月14日 主日礼拝メッセージ

「わが身を重ねるほどに」Ⅱ列王記4章18~37節  金田洋介牧師

預言者エリシャを献身的に支え、神の働きに加わった報いとして、子どもが与えられたシュネムの女性。ところが、思いもよらない事態が起こります。彼女の子どもが頭の痛みを訴え、死んでしまったのです。

Ⅰ.エリシャに助けを求めるシュネムの女性

愛する我が子の突然の死に、彼女は動揺したに違いありませんが、彼女はすぐに行動に移します。エリシャのために作った部屋に息子を運んで寝かせると、息子の状況を夫に告げずに、急いでエリシャの許へ向かったのです。彼女はエリシャの足元にすがりつき、愛する我が子の命が奪われた悲しみを訴えます。しかし彼女は、息子の命を諦めてはいません。神の人エリシャと彼を遣わされた神に、一縷の望みを抱いてやってきたのです。これらのことから一つ目に覚えておきたいことは、私たちは彼女と同じように助けを必要する側にいるということです。私たちの人生、何が起こるかわかりません。その時、誰に助けを求めますか。彼女は望みを捨てず、生きておられる神に望みを置いたのです。私たちも全能の神、主を呼ぶのです。(エレミヤ33:3)

Ⅱ.引き返すゲハジと繰り返すエリシャ

事態を悟ったエリシャは先にゲハジを遣わし、悲しむ彼女に寄り添いつつ子どもの許へと向かいます。すると、ゲハジがあっさり引き返して来ました。エリシャの命じた通りにしても、子どもに何の変化も起こらなかったというのです。エリシャが家に着くと子どもは死んでしまったままでした。エリシャは神に祈ると、自分の口をその子の口の上に、同様に目を、両手を置き、わが身を子どもの上に重ねたのです。だんだん子どもの体が温かくなってきました。さらにエリシャは繰り返します。すると子どもは生き返ったのです。シュネムの女性は、エリシャと神に心から感謝し、子どもを抱き上げて出て行きました。

二つ目に言いたいことは、私たちはエリシャのように誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側にもいるということです。シュネムの女性の悲しみ、心の痛みに寄り添い、わが身を重ねるように執り成し祈り、そして文字通り、子どもにわが身を重ね、諦めずに神の憐みを求めたのでした。神の子とされたクリスチャンは、エリシャのように、誰かの為に寄り添い、神に執り成し祈る側に立つのです。わが身を重ねるほどに執り成し祈り続けようではありませんか。他でもなくあなた自身が、十字架の上で執り成し祈られた救い主イエスによって救われたのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、オンシジューム、アルストロメリア、カラーです。