2021年11月7日 主日礼拝メッセージ

「パウロの祈り」ピリピ1章8~11節 金田洋介牧師

 

神の愛が豊かにされるように

パウロは「ピリピの信徒たちの愛が豊かにされるように(9節)」と祈っていると書き送っています。この「愛」は「神の愛(犠牲をいとわず、見返りを求めず、与え尽くす愛)」のことです。パウロは、彼らの内に与えられた神の愛が豊かにされるように願っていますが、その「豊か」さは、私たちの想像を超える豊かさを意味しています。福音書にイエスが5つのパンと2匹の魚を5000人以上の人々に分け与えられた奇跡が記されていますが、そこには、「人々は食べて満腹し、パンくずの残りが十二のかごいっぱいになった」とあります。パウロが祈り求めている「豊かさ」とは、この「食べてなお余るほど」の豊かさ。つまり、「与えても与えても尽きない」豊かな愛を意味しているのです。

知識と識別力によって愛は豊かにされる 

パウロは、愛が豊かにされる為に必要なこととして、知識と識別力を挙げています。知識とは御言葉による知識といえるでしょう。つまり、イエスが何を語り、何を教え、どのように行動したのか、イエスを通して神の聖さや神の愛の性質を知ることができます。そして、聞いて終わりにせずに思い巡らし、心の内に留め、深めていくことが大切です。

次に識別力です。パウロは「あらゆる識別力」と言っていますが、今回は愛に絞りましょう。つまり、神の愛を正しく見分ける力です。パウロが知識を挙げたのは、彼らの愛が誤っていないか、偏っていないか、あやふやでないかを識別するためです。判断する基準(知識)がなければ神の愛を見分けることはできません。ですから、イエスを知り、神を知ることによって、正しい識別力が養われ、神の愛が分かり、その結果豊かにされるのです。しかし、イエスの愛、神の愛を知る程、私には愛がないことに気付かされます。しかし聖書は、「愛は神からくる」と教えています。「たとえ私には愛がなくても、神は愛を注ぎ、満たし、溢れるほどにして下さる」そう信じて祈り求めるなら、神の愛が内から溢れ出るようにされるのです。

キリストの日を意識して祈り求める

私たちは、必ずイエスが再臨される日を迎えます。そして、神の前に立つ日が来ます。その日は、私たちの日々の歩みが、愛が、問われる日でもあります。その日を喜びと平安を持って迎えられるように、知識と識別力を祈り求めて行きたいのです。互いに祈り合い、教え合い、励まし合いましょう。今が、永遠に繋がっていることを覚え、キリストの日を待ち望んで歩みましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グロリオーサです。