「キリストからの招き」ヨハネの福音書1章 37~42節 金田洋介牧師
本日は先週の続きで、二人の人がイエスについて行くところ(37節)から始まります、彼らはもともとバプテスマのヨハネの弟子で、一人はアンデレ、もう一人はこの手紙の著者のヨハネだと言われています。彼らとイエスとのやり取りから学んで参りましょう。
①耳を傾けて下さるお方~あなたがたは何を求めているのか~
イエスはご自分の後についてくる二人に向かって「何を求めているのか」と尋ねると「先生、どこにお泊りですか」と答えます(38節)。これは、単にイエスの滞在場所を尋ねているのではありません。「泊まる(38節)」や「とどまる(39節)」と訳されている語は、同じくヨハネ15章でイエスがご自身との結びつきをブドウの木と枝に例えて、「わたしにつながっていなさい」と言われた「つながって」と同じ語が用いられているのです。ですから、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した方がどういうお方なのかを知り、関係を築くために、イエスのおられる所に行き、そこで話を伺いたいということなのです。
面識のない彼らの求めを受け止め、耳を傾けて下さったイエスは、あなたの求めにも耳を傾けて下さるお方です。イエスご自身について、神様について、人生に起こる様々な出来事について、祈りを通して素直に求めるのです。その求めにイエスは必ず応えて下さるのですから。
②キリストからの招き~来て、見て、とどまれ~
イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と彼らに言われました。この招きは私たちにも向けられた言葉として受け取りたいのです。
「来なさい」…イエスの招きに応えて行く。イエスに心を向け、近付くのです。近付くとは、心を開くということ。素直な心と態度でイエスとの交わりを求めましょう。
「見なさい」…イエスの招きに応答し、素直に心を開いたならばイエスを見ましょう。見るとは肉眼で見るということではなく、聖書の言葉を読み、説教を聞き、聖書を学び、祈ることを通して、イエス様と出会うのです。それは、イエスがどういう方か、何を私達に求めておられるのかを、御言葉やメッセージ、祈りを通して、悟るということです。
「とどまりなさい」…とどまるというのは、イエスと繋がり続けるということです。それは、イエスの声がいつも聞こえる場所にいるということ。教会生活、御言葉と祈りの生活、兄姉との交わりから離れてはいけないということです。イエスにとどまって(つながって)いるならば、豊かな実を結ぶのです(ヨハネ15章)。もし、あなたがキリスト(救い主)であるイエスの招きに応えるなら、あなたにとってかけがえのない、特別な日、特別な瞬間が訪れるでしょう。