2022年1月23日 主日礼拝メッセージ

「主の前に立つ日に備えて」マタイの福音書 25章31~46節 金田洋介牧師

 

本日の箇所は、世界の終わの時に成される審判について語られたイエスの言葉が記されています。イエスは王としての栄光を纏い、再臨されます。そして、イエスご自身が私たちを裁かれるのです。イエスは王であり、救い主であり、裁き主でもあられるのです。(イザヤ33:22)

裁き主であられるイエスは、羊飼いが羊とやぎをより分けるように、全ての人々をご自身の右と左に置かれます。右に置かれた人は父なる神に祝福された人々であり(34節)、御国を受け継ぐ人々、すなわち永遠の命を頂き、天国に入る人々を指します。一方、やぎにたとえられ、左に置かれた人々は呪われた者と呼ばれます(41節)。彼らはイエスのそばにいることが許されません。悪魔とその使いたちと共に永遠の火の中、すわなち、地獄の火の中にいれられ永遠に苦しむのです。

ここで忘れてならないことは、全ての人々が神を信じ、イエスの十字架と復活を信じ受け入れ、永遠の命を得ることが神の御心であることです(1テモテ2:4)。神は一人として滅んでほしくないと願っておられるのです。しかしながら、裁きの時には滅びる人々がいることが告げられています。今、生かされている私たちは、この事実を厳粛に受け止め、父なる神に祝福された者、御国を受け継ぐ者とされたいのです。

では、右に置かれた者たちと、左に置かれた者たちの違いは何なのでしょうか。それは、何よりもイエスを救い主として信じる信仰を持つこと(ローマ10:9-10)と、この地上に生かされるいている間、神の御心、御言葉に従うことを追い求めて行くことです(マルコ7:21)。イエスは「もっとも小さい者にしたことはわたしにしたことであり、しなかったということはわたしにしなかったことなのだ」と語られました(25:40)。この「もっとも小さい者」とは、あなたが一番親切にできない、関わりたくない人の事です。この「もっとも小さい者」した愛の業、愛のない業はみな、イエスに対してしたことなのです。私たちはこのイエスの言葉を真摯に受け止めなければなりません。私たちは神に愛され、赦された者として、聖霊の助けをいただきながら、全ての人に対して愛の実を結びたいのです。イエスは再びこの地上に来られます。主イエスの前に立つ日に備えて、どのように生きるべきかを考え、決断しなければなりません。あなたの永遠に関わる決断は、あなたが生きている間にしかできないのです。わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。この言葉は、あなたに対するイエスの切なる願いでもあるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、ネコヤナギ、ロウバイ、ユリ、アルストロメリア、ストックです。