「生くるにしても死ぬるにしても」ピリピ人への手紙1章19~26節 金田洋介牧師
本日からピリピに戻ります。改めてパウロという人物を知り、彼の生き方から学びましょう。
①パウロの人生の目的 20節
パウロには願いがありました。それは、囚われの身から解放されるよりも、自分の身に起こった全てを通してキリストが崇められることでした。「生きるにしても死ぬにしても…」とありますが、まさに彼の全人生を表しているように思えます。パウロにとって、生きること全てがキリストの為に生きる良い機会であり、たとえ死んでも、それは更に素晴らしいことに与れるのだと語ります。彼の人生の目的は、ただキリストの為にだけにあったということでしょう。
②パウロの葛藤 22、23節
次に、彼は自分が生きながらえれば、福音は更に前進する。しかし、自分が死んでも、御国で永遠にイエスと共にいられる。むしろ、その方が遥かに望ましいと本音を漏らします。福音の前進か永遠の御国か、彼はこの二つに挟まれて葛藤していたのですが、パウロにはピリピの信徒たちの信仰と喜びの為に、神は自分を生きながらえさせて下さるという確信が与えられていたようです。彼の人生の目的も、葛藤からの答えも、全てキリスト・イエスに繋がっていることに注目するべきだと強く思わされます。
③パウロが握っていた素晴らしい命
最後に、彼が持っていた素晴らしい命に注目しましょう。彼が「生きることはキリスト」と告白できた理由。それは、イエスを信じ受け入れる全ての人に与えられる、新しい命を持っていたからです。この命は、自分自身の為だけに生きる古い生き方(命)から、イエスの為に生きる新しい生き方(命)をもたらすのです。次に「死ぬことも益」と告白できたのは、死んでも永遠にイエスと共にいられる、永遠の命を持っているからです(ヨハネ3章36節)。パウロにとっての「生」と「死」は、全てキリストに在る命の下にあったということなのです。
あなたも、キリストの為に生きることを願いませんか。誰でも、このキリストの命を持ち、この命に生きるようにと招かれているのです。その招きに対し、「永遠の命だけで十分」「私は私の人生だけを一番にしたい」と思われるかもしれませんが、あなたがクリスチャンとして生きていること自体が、神の愛とイエスの救いの証しなのです。何か特別な事が出来ていなくても、あなたは既にキリストの為に生きている。その事を喜ぼうではありませんか。そして「生くるにしても、死ぬるにしても。私の身に起こった全てのことによって、神がほめたたえられますように。」と願う者とならせていただこうではありませんか。