「新しい契約の成就」 マタイの福音書26章26~30節 金田洋介牧師
聖書箇所はイエスと弟子たちの最後の晩餐の場面です。この最後の晩餐の出来事は過去の話ではなく、今を生きる私たち一人一人に関わる事なのです。
Ⅰ.割かれたパンとイエスの杯
イエスは一つのパンを割き、弟子たちに分け与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」割かれたパンは、「これはわたしのからだです」と言われているようにイエスの体を象徴し、裂かれて分け与えられたことは、イエス様が一人一人のために死なれること、すなわち十字架の死を意味していました。イエスの十字架の苦しみは、他でもなく私たちのためであることを忘れてはなりません。聖餐の席に着くたび、自らの手で「取って食べる」たびに、イエスは私のために死なれたのだということを思う者でありたいのです。
次にイエスは、ぶどう酒の入った杯を取って言われました。「みな、この杯から飲みなさい。」イエスは、パンは割いて分け与えられたのに対し、今度はイエスの杯を回し飲みしなさいというのです。これは弟子たちが同じ杯から飲むことを通して、この後明らかにされるイエスの血の契約に与る一つの共同体であることを教えるためでした。そして、さらにイエスの杯にはとっても大切な意味が込められていました。
Ⅱ.主イエスの血による新しい契約
「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。イエスの杯に注がれたぶどう酒はイエスの血を表しています。そして、イエスの血は、「多くの人のために、」流される血であり、「罪の赦しのために流される、」「…契約の血」だと言うのです。契約の血とは、イエスの血を持って契約が結ばれたということです。杯に注がれたぶどう酒は、全人類の罪の身代わりのために、イエスが十字架の上で流される血を表し、さらにはエレミヤ31章31節に預言されていた新しい契約を意味していました。それは、全人類が対象であり、いつの時代にも有効な契約です。ですから、今を生きる私たちにも及ぶ契約なのです。イエスはあなたの罪の身代わりとして十字架にかかり、血を流して死んで下さいました。もしも、あなたが自分の罪を告白し、「イエス様が十字架の上で流された血と十字架の死は、私の罪の身代わりです」と信じ告白するなら、どんな罪でも赦されるのです。これがイエスが用意して下さった新しい契約。成就した契約なのです。
最後にイエスは、御国(天国)における宴の日まで、ぶどうで作られた酒を飲むことはないと言われました(29節)。イエスを信じる人は全て、御国においてイエスと共に食卓に着くのです。ですから、私たちもイエスと共に食卓に着くその日まで、ご自身の命を捨てて、新しい契約を結び、成就して下さったイエスに心から感謝し、聖餐に与りましょう。