2022年4月10日 棕櫚の主日礼拝メッセージ

「我ために見捨てられたキリスト」マタイの福音書27章45~56節 金田洋介牧師

 

受難週は私たち一人一人の罪の為に十字架へと向かわれたイエスの受難を深く覚える大切な時です。心を静めて十字架の上のイエスの苦しみを覚えましょう。

まず、イエス様が十字架に磔にされるまで、あらゆる苦痛、苦悩を味わわれたことを覚えたいのです。ゲツセマネにおける苦祷、弟子たちの裏切り、不当な裁判、人々やローマ兵の嘲りと暴力…精神的、肉体的苦痛が止めどなくイエス様を襲い、その苦しみは十字架に磔にされると激しさを増します。ところが、ここまでイエス様は何の恨み言も、弁明の言葉も発していません。まさに、イザヤ書にある苦難のしもべの姿そのものでした。

イザヤ53:7 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

イエス様が十字架につけられてから3時間後の12時から午後3時まで「闇が全地をおおった」とあります(27:45)。「闇が全地を覆う」という状況は、旧約聖書にある「主の日(神の裁き)」を想起させます(イザヤ、ヨエル、アモス他)。つまり、この暗闇は罪に対する神様の怒りがイエス様に向けられているということなのです。しかし、この罪はイエス様の罪ではなく私たちの罪です。Ⅰペテロ3:18 「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」イエス様は罪がない正しい方なのに、罪人として裁かれたのです。そして、罪に対する神様の激しい怒りは、イエス様ただお一人の上に下りました。罪人である私たちが、神様の怒りを受けるべきであったのに、その怒りと裁きはイエス様に下ったのです。

マタイ27:46 『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』神様の怒りと裁きは、神様との断絶です。神様に完全に見捨てられるということなのです。それがどんなに恐ろしい裁きであるかは、イエス様がゲツセマネの園で祈っておられた姿から分かります(26章37~39節)。そこには、イエス様が「悲しみのあまり死ぬほどです」と、弟子たちにその苦しみを告白せずにはいられないほどのものであることが記されています。神様に捨てられるはずのないお方が、私たちの罪の身代わりとなって裁かれ捨てられた事実、そしてイエス様が味わわれた苦しみをしっかりと心に受け止めたいのです。

あなたの罪のために、あなたを罪の滅びから救うために、罪のない神の御子イエス様が神様に裁かれたことによって、罪の赦しと永遠の命が与えられたことを信じますか。どうかこの尊い救いに与り、この救いがもたらされるためにどのような苦しみをイエス様が味わわれたのかを思い巡らしつつ、この受難週を過ごして参りましょう。また、イエス様の尊い犠牲に感謝しましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、ユリ、トルコキキョウ、アルストロメリアです。