2022年5月8日 主日礼拝メッセージ

「苦しみの先にあるもの」詩篇 119 :篇  65~72節 金田洋介牧師

 65~72節を読みますと、作者はすでに苦しみを乗り越え、その苦しみの意味を見出すことができたことが伺えます。作者は苦しみを通して、神様の御言葉、教え、掟、戒めを守ること、学ぶことが大切であること、そして、神様ご自身が自分に良くしてくださったことを、身をもって体験したようです。その尊い体験は、「苦しみにあったことが自分にとって幸せだった」との告白をも生み出すほどものだったのです。

人生における苦しみを神様の視点から見るならば、苦しみは私たちを実り多い祝福へと導く入り口であると言うことができます。しかし、苦しみに直面している時にそのように受け止めることは容易ではありません。けれども、神様は悲しみを喜びに、苦しみを祝福に変えて下さるお方だと信じる者でありたいのです。もちろん、祝福までの過程は様々だと思います。時には、ヨブのように、サタン(悪魔)が関わることによって味わう苦しみがあるかもしれませんし、不意に襲ってくる苦しみもあります。しかし、たとえ苦しみの原因が自分にあったとしても、また、他にあったとしても、その苦しみには、必ず神様のお考えや目的があることを覚えたいのです。困難と屈辱を味わったイスラエルの民も、「神様がおられるのに、なぜこのようなことが起こることを許されるのだろうか」と思ったことでしょうし、呟いたことでしょう。しかし、神様はイスラエルを何度も、何度も顧みて下さいました。特にバビロン捕囚という苦難を通して、神様の計画、神様の御言葉が真実であることを民は知りました。神様が彼らを苦難に遭わせられたのは、彼らがより真剣に神様を求めるようになるためです。イスラエルの民の幸せを願われる神様は、彼ら自身が蒔いた罪による苦難という刈り取りを、そのまま苦難で終わらせず、神様に立ち返る機会として用いられたのです。

同様に、神様はあらゆる苦しみを通して私たちに悟らせてくださいます。時に、神様に不従順であったことを悟らせるため神様を信じるようになるため、或いは、信仰を訓練するためこれまで経験したことのない新しい祝福に与るためです。そして何より、私たちが神様を崇めるようになるためです。全ては、目的が伴った苦しみなのです。これらはほんの一部分です。皆さんそれぞれに相応しい、神様の悟りが備えられているのです。。

どんな苦しみも、苦悩も、痛みも、過ちも、困難も、行き詰まりも、最後には、その経験を通して悟った神様の御言葉の真実と、力、恵みの故に、72節にある『幾千の金銀にまさる恵み』の体験だと、感謝で終わる時が来るのです。激しい苦しみ、損失、喪失、絶望を経験したヨブも、最後には神様の偉大さを知ることができたばかりか、全てを失う前の2倍の祝福を得ました。詩篇の作者やヨブの体験を例にしましたが、神様は苦しみの先にそのような素晴らしい神体験を用意しておられるのです。ですから、どんなことがあっても最後まで主を信じ、信頼しようではありませんか。ひとり子を犠牲にしてまで救って下さったお方が、必ず責任を持ってあなたの信仰を励まし続けて下さるのですから!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ジャスミン、ユリ、カーネーション、グラジオラスです。