「主なる神こそ私の幸い~主を前にする人生~」詩篇 16 :篇1~11節 金田洋介牧師
この詩の表題として「ダビデのミクタム」とあります。「ミクタム」とは「黄金の詩」という意味があるそうです。ダビデは羊飼いからイスラエルの王となった人ですが、華やかに見えるその人生の大半は戦いの連続でした。青年時代はサウル王に、晩年は実の息子に命を狙われ、恐れと不安と苦悩を味わいました。また、罪を犯して取り返しのつかないような大失敗も経験しました。しかし、この16篇からはそのような激動の人生を歩んできたとは思えないほど、素直で大胆な信仰告白、神様に対する感謝、揺るぎない信頼と確信が伝わってきます。むしろ、激動の人生を歩んだからこその告白なのでしょう。
1.主の眼を意識して生活する
ダビデはいつも、「主を前にして」いたと言っています(8節)。常に主の眼を意識して生活していたのでしょう。ダビデは主が「あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られるお方である(詩篇139:2)と告白しています。彼は常に主なる神と向き合い、神の御心、神の御言葉と向き合い、助言をいただき(7節)続けてきたのです。困難な時も、また、とても聖い神に顔向けできないと思えるような、取り返しのつかない罪、失敗を犯した時も彼は主を前にして来たのです。神様の目を意識していたダビデは、積極的に神様に喜ばれる生き方をしようと努め、導きを求めていました。だからこそ、夜の静まりの時を大切にしていたのでしょう(7節)。私たちも常に主を前にする日々を送りたいのです。
2.絶えず主の助けと導きを仰いで生活する
次に「主を前にしている」とは、主の助けと導きを絶えず仰ぐことです。ダビデは常に主の助けと導きを仰ぐことによって、順境の時、逆境の時、また、自分が犯した罪が招いた苦悩の時、神の御守りと御力、豊かな憐みを体験しました。これによってダビデは、「揺るがされることがない(8節)」と断言することができたのです。実際のダビデの生涯を見ますと、サウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でしたし、また、その後イスラエル王となってからは、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中に、全能の神様の助けと守りを経験したのです。それが、神様への揺るぎない信頼、「神ご自身が自分の幸いだ」という、告白へと至らせたのです。
もしあなたが、日々主を前にして生きるなら、現実に生きて働かれる神を体験します。そして、その神体験が、あなただけのミクタム(黄金の詩)という証しを生み出し、あなたの神への信仰と信頼はさらに揺るがないもの、「神こそ私にとっての幸いである」との信仰告白へと至らせるのです。世の声に惑わされないで、常に神を前にして日々を歩みましょう。そして、神が全ての物を満たされる事、目に見えるものも見えないものも、豊かに満たして下さることを体験させていただきましょう。