2022年6月19日 主日礼拝メッセージ

「父なる神のもとへ」 ルカの福音書15章11~24節 金田洋介牧師

 

Ⅰ.父親のもとから出て行った弟息子

ある人に二人の息子いました。ある日、弟息子が父親に自分が将来もらうことになる財産を求めました。父親が生きているにもかかわらず、遺産を求めるとは本当に無礼な要求です。ところが父親は、彼の求めに応じて財産を与えました。すると弟息子は、「すべてのものをまとめて(新共同訳:金に換えて)」旅立って行ったのです。大金を手にし、自由気ままに過ごしていた弟息子でしたが、やがて全てのお金を使い果たし、追い打ちをかけるように激しい飢饉に遭い、食べることに窮します。何とかついた仕事は、ユダヤ人もしない豚の世話。彼はその豚の飼料に手を出したいと願うほど困窮していましたが、彼を助けてくれる人はいません。何と哀れな姿でしょうか。しかし、苦しみの底で彼は我に返ります。

Ⅱ.弟息子の回心

弟息子は全てを失ったことによって我に返り、父のもとに帰ることを決心します。彼は自分の過ちを認め、自分のいるべきところは父親の所だと気付いたのです。弟息子は父に対する謝罪の言葉と、雇人の一人として扱ってもらうことを心に決め、父のところへと向かいます。一方、弟息子の帰りを今か今かと待っていた父親は、遠くにいる息子を見つけると、自分の方から走り寄って彼を抱きしめ、喜んで迎え入れたのです。弟息子が謝罪と悔い改めの言葉を父親に伝えると、父親は僕たちに弟息子の身なりを整えさせ、祝宴の用意をするよう命じます。弟息子が父親の息子としての身分を回復した瞬間でした。全てを失い、父親に何一つ返すことができなかった弟息子でしたが、父親はありのままの息子を最上の愛で迎え入れたのです。

Ⅲ.父なる神様のもとにこそ幸せがある

時に、私たちも神様のもとにいるよりも、神様のいない世界に魅力を感じ、そこに自由や幸せがあると思いがちです。「神様を信じていると自由がない。」と不満を抱くこともあるかもしれません。しかし、放蕩息子の姿を思い起こしてほしいのです。放蕩生活に支配された弟息子の姿は、「父なる神様のもとを離れた私たち人間を襲う罪の誘惑と支配」を、突然襲ってきた大飢饉は「自分の手に負えない困難」を、貧しさと孤独は「何によっても満たされない虚しさ」を表していると言えるでしょう。それら力に対して、私たちは無力です。けれども、父親のもとに帰ってきた弟息子は、罪と罪の支配や大飢饉という困難からの救いと守り、父の愛と父の子である喜びに与ることができました。父なる神様のもとにこそ本当の幸いがあるのです。「もう少し生活を見直してからから帰ろう」ではなく、心に示されたその時が、神様の時です。躊躇わず、父なる神様の懐に飛び込もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、あじさい、ユリ、ダリアです。