2022年7月3日 主日礼拝メッセージ

「主なる神による祝福の宣言」民数記6章22~27節  金田洋介牧師

 

本日からしばらくの間、民数記から学んで参りましょう。

Ⅰ.民数記~民の数が数えられているということ~

民を数えると書いて民数記。イスラエルの民の人口を数えることに一体何の意味があるのだろうと、誰もが疑問に思われると思います。しかし、注意深く読むと「およそ」ですとか「だいたい何人くらい」ではなく、最後の一人まで数えられていることに気付きます。数を数えることは神様の命令でした。つまり、神様は十把一絡げで民を見ていないということ。一人も漏れず、覚えておられるということなのです。同様に、今日を生きる私たちも、この神様に覚えられています。そればかりか、神様の目は私たちの家族にも注がれているのです。私たちはそれぞれの家族の中から、神様に召し集められた代表者でもあるということです。もちろん、家族全員で礼拝を守ることができたら何よりですが、現実は家族の中で一人、或いは二人、親族の中だけで私だけ、私の家族だけ、私たち親子だけ、夫婦だけ、そのようなものだと思います。しかし、神様の関心はここにいる私たちと共に、私たちの家族や親族にも注がれているということも覚えていたいのです。

Ⅱ.主なる神による祝福の宣言

本日の箇所である22節以降には、主なる神様による祝福の宣言が記されています。中心聖句の24~26節は三度にわたって「主が…あなたを(に)…」と繰り返されています。それは主なる神様が祝福の源であり、この祝福の対象は他でもなく「あなた」であるという意味です。その祝福は、主なる神様の守り(24節)であり、「御顔(25、26節)」が示す「神様の臨在(常に共におられること)」による恵みと平安(平和)です。そして、この祝福は、今日を生きる私たちにも及ぶ祝福なのです。私たちは、すでに神様の守りの内にあるということです。現実は多くの悩みや困難があるかもしれません。しかし、その悩みや困難、そして私たち自身もまとめて、神様の御手の守りの中にあるのです。何という慰めでしょうか。そして、常に共におられる神様の子どもとして恵みに満たされ、この罪の世の中にあっても光の子として歩むことができます。それは他でもなく、御子イエス様の贖いの十字架によるものです。イエス様によって、神様と私たちとの間に和解と平和(平安)がもたらされました。このゆえに、私たちは他者との関係においても平和がもたらされるのです。

礼拝の最後に祝祷がささげられますが、これほどの祝福の宣言を受けて、私たちはそれぞれの家庭、社会へと遣わされて行くのです。どうか、神様の祝福がもたらす恵みと幸せを実感できますようにと心から祈ります。主なる神様によってなされた祝福の宣言が、あなたがた一同の上に、世々限りなくとこしえまで。アーメン。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ケイトウ、リンドウ、カーネーションです。

6月26日は、教区一斉講壇交換のため、主日礼拝メッセージの投稿はありませんが、この日活けられたお花を紹介します。
ユリ、オンシジューム、あじいさい、ユキヤナギです。