2022年7月10日 主日礼拝メッセージ

「誰が中心?神様を中心に!」民数記8章5~22節  金田洋介牧師

 

民数記を通してイスラエルの民の姿を見る時、神様が民に対してご自身を中心にして歩むことを願っておられたことが分かります。たとえば、2章において会見の幕屋を中心とした12部族の配置について記されています。イスラエルの民は常に幕屋を中心に宿営し、移動しました。一番多い部族や一番強い部族でなく、また、民のリーダーであるモーセが中心でもありません。彼らをエジプトから導き出して下さった神様を中心とするのです。彼らの旅路は、平坦な道もあれば、ゴツゴツとした険しい道もあったでしょうし、天候に悩まされる日もあったと思います。しかし、神様が彼らの中心におられ、山あり谷ありの道のりをも共に歩んで下さり、守って下さったのです。結果的に40年という長い旅路となりますが、民の着物はすり切れず、足がはれることはありませんでした(申命記8章4節)。

私たちの人生の旅路も平坦な道ばかりではありません。神様を信じ、毎日祈っていても色んなことが起こってきます。しかし、イスラエルの民の中心におられたお方が、あなたの人生の中心にいてくださるのです。喜びの時は神様と共に喜ぶ機会に、悩み苦しみを通る時は、それを恵みの機会、取扱いの機会としてくださるのです。

さて、本日の箇所は、幕屋における働きに就くレビ人の為になされた事々が記されていますが、大変そうに感じますし、何でここまでしないといけないのだろうと思ってしまいます。しかし、モーセや祭司職を担っていたアロン、この任に就くレビ人、そしてイスラエルの民は皆一言も呟かず、文句も言わず、神様の御言葉(命令)を忠実に実行しています。これは彼らが神様を生活の中心にしていたからこその態度なのです。特に、会見の幕屋は神様との大切な交わりの場所です。御声を聴く場、ささげものが捧げられ、神様が礼拝される場です。何より神様は聖いお方ですから、聖い神様の御前でレビ人がその役割を果たすために必要なこと、当然のこととして民は理解し、忠実に行ったのです。彼らの様に誠実に、真実に、神様の御言葉に聴き従う者でありたいと思わされます。

今日、私たちが神様を礼拝できること、神様の御声を聴き、感謝のささげものを献げ、神様と親しく交わることができるのは、御子イエス様の贖いによるものです。いつもイエス様に感謝しつつ、神様を中心にした生活、人生を歩むお互いでありたいのです。神様を中心にした生活、人生とは、民の様に神様の御声(御言葉)をいつでも聴ける状態、いつでも従うことができる備えをして日々を過ごすということです。毎日、どこかで御言葉に触れる機会、時間を持つよう心がけましょう。もし心を動かされたのなら思い切って実行しましょう。たとえ、「御言葉に触れていない、祈っていない」と気付いても自分を責めず、気付かせて下さったことを神様に感謝して、御言葉と祈りを愛する者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、リンドウ、ヒメヒマワリです。