「不満の温床、神の温情」民数記11章1~23節、31~34節 金田洋介牧師
神様を中心に旅を続けるイスラエルの民でしたが、彼らの旅の全てが順調だったわけではありませんでした。これまでも民が不満を呟くことがありましたが、再び激しく不平を呟いたのです。すると神様は怒りの火をもって宿営の一部を焼かれますが、モーセの必死のとりなしによって事なきをえました(1~3節)。ところが、今度はイスラエルの民と共にいた外国人たちの激しい欲望がきっかけとなり、民の中から食べ物についての不満が再び爆発し(4~9節)、神様の怒りも激しく燃え上がります(10節)。すると、神様と民との間に立ってとりなしていたモーセまでもが、責任の重さと民の不信仰を嘆いて不満を訴えます(11~15節)。神様は苦しむモーセの為に長老たちの中から70人を選び、モーセの重荷を担う同労者を立てて下さいました。ここに神様の温情(思いやりのある寛大な心)を見ることができます。そして、欲にかられた民には、吐き気をもよおすほどの肉を与えると約束され、その御力をもって実現されたのです(31~32節)。ところが、神様への感謝を忘れ、肉を貪る民たちに神様の怒りが燃え上がり、激しい疫病をもって民を打たれたのでした(33~34節)。何とも悲しい結末です。
打たれた者たちは、神様によって奴隷状態から救われたことを忘れ、天のパンである「マナ」を毎日与えられていながら満足せず、感謝もせず、「マナしかない」などと不平をもらしていました。彼らの心を支配していたのは欲望(貪り)でした。この欲望(貪り)こそが、彼らの不満の温床(物事の起こる原因となる場所、物事)だったのです。そして、この貪りのゆえに神様に裁かれたのでした。
ヤコブの手紙1:14-15人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
民の呟きの始まりは、神様を畏れない、敬わない者たちの「欲望の声」でした。民は彼らの声に惑わされ、「貪り」に支配されてしまったのです。私たちの遣わされている世界は、神様を「主」としない世界、価値観の上に立っています。神様を信じることが無意味だと惑わし、神中心ではなく、自己中心の世界へと誘うのです。気を付けなければなりません。
民はマナを通して神様が主であることを体験し、神様に対する信仰、信頼が養われて行きました。イエス様はマナを例にして、ご自分のことを「天からのパン」、「命のパン」だと言われました。ですから、今日を生きる私たちも、日毎にイエス様の御言葉をいただくことが大切です。また、神様が貪る者たちを打たれたということは、私たちの内にある不満の温床、罪を生じさせる、「貪り」や「自己中心」を取り除いて下さるということでもあります。
御子イエスの血がすべての罪から私たちきよめてくださいます。1ヨハネ1章7節
御言葉を愛し、与えられている全てに感謝し、この一週間も歩んで参りましょう。