2022年8月7日 主日礼拝メッセージ

「柔和の限りを尽くして」民数記12章1~15節 金田洋介牧師

本日の箇所は、姉のミリアムと兄アロンが、モーセの妻が外国の女性であることについて非難するところから始まっていますが、それは口実に過ぎず、本当の不満は別にあったのです。

彼らの本当の不満は、モーセが神様にとって特別であったということです(2節)。前回のイスラエルの民同様、不満の陰に罪が隠れていました。その罪は「妬み」「傲慢」「高ぶり」です。一方、モーセは姉と兄の不満や非難に対して一言も言い返しません。弁解もせず、怒りもせず、黙って二人の言葉に耳を傾けています。自分の欠点や至らなさを彼自身が認めていたからではないでしょうか。そのような態度を自然に取れるモーセだからこそ、「地の上のだれにもまさって柔和であった。」(3節)と紹介されているのでしょう。

アロンたちの言葉を聞かれた神様は、モーセが全イスラエルの中で最も忠実な者、そして「わたしのしもべ」と呼ぶほどの存在であることを二人に告げられ、二人に厳しい怒りを向けられます。神様が彼らから離れられると、ミリアムの皮膚がツァラアトに冒されていました。姉の姿を見たアロンはモーセに嘆願します。するとモーセは二人に対して恨み言をつぶやいたり、厳しく断罪したり、裁いたりせず、ミリアムの癒しの為にとりなし祈ったのでした。

アロンとミリアムの非難の根底にあったものは妬みです。ヤコブ3章14~18節の御言葉は、まるでアロンとミリアム、モーセの姿を表しているかのようです。そこでは、妬みや利己的な思いを止めるよう勧めています。利己的な態度(ここでは、自分が指導者として相応しいと考え、神様が選んだモーセを認めない態度)、真理に逆らう態度(モーセを否定するということは、神様の御心に逆らうことと同じ)は、二人の姿そのものです。一方、神様の御心に忠実で従順であったモーセの態度は、神様の知恵に満たされ、批判に対しても弁解せず、恨み言を言わず、アロンに対しても、ミリアムに対しても柔和の限りを尽くし、自分を貶めようとした二人のために神様にとりなし、最終的に平和と和解をもたらしたのです。

私たちが遣わされている世界は妬みや利己的な(自分の利益だけを求め、他者を顧みない)思いが渦巻く世界です。神様の愛を知っている私たちもその渦に巻き込まれ、彼らと同じ様に他者を妬み、蔑み、攻撃し、批判する側に立つようなことがあると思うのです。あるいは、私たちが批判の対象、攻撃の対象になることだってあるでしょう。ですから、神様からの正しい知恵と正誤を見極める力が必要です。自分の為に祈ると同時に、お互いの為に神様に祈り合おうではありませんか(ピリピ1:9~11)。私たちは、私たちの為に柔和の限りを尽くしてご自身の命を犠牲にして下さった主イエス様を信じる信仰によって全ての罪が赦され、さらには柔和なイエス様の御姿に似る者とされます。自分が置かれている環境、立場を思い巡らしながら、自分のために、互いの為に、祈ることが始めて参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ユリ、ケイトウです。