2022年10月9日 主日礼拝メッセージ

逃れの町に見るキリストの贖いとキリスト者の役割り民数記35章1~15節 金田洋介牧師

33章の最後から、カナンの地に入った時にイスラエルがするべきことが記されています。そして35書では、レビ人の為の居住地を各部族に割り当てられた土地から分け与えるべきこと、そのうちの六つの町を逃れの町とすることが記されています。逃れの町とは、過失によって人を死に至らしめた人が逃げ込むことのできる町です。留まり続ける限り、復讐者の手から命が守られます。そして大祭司が死んだとき、その人の罪は大祭司の命によって贖われ、元の生活に戻ることが赦されたのです。(詳細は9~29節)

この逃れの町に、イエス様によってなされた私たち人間の罪に対する完全な贖いを見ることができます。ヘブル人への手紙9章11~12節にはこうあります。

しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

大祭司は犠牲の動物の血を携えて聖所に入り、民の罪のための贖いをしますが、それは毎年繰り返されなければなりませんでした。しかしイエス様は、御自身の掛けがえない命を犠牲として献げ、十字架の上で死ぬことによって、私たち人間の罪は完全に取り除かれ、罪の赦しの恵みがもたらされたのです。ですから、逃れの町に逃げ込んで命を守られてきた罪人が、大祭司が死ぬことによって赦しを与えられ、もとの生活に戻ることができるという贖いの恵みは、後に真の大祭司として世に来られたイエス様の十字架の死によって、完全な贖いが与えられるということを表していたのです。

民数記の時代になされた贖いは、イエス様による完全な贖いの型としてなされ、後にイエス様によって実現しましたが、この救いが今日を生きる私たちまで及んでいるとは何という驚き、何という幸いでしょうか。もし、あなたがイエス様を信じ受け入れるなら、完全な罪の赦しに与り、イエス様を犠牲にしてまであなたを愛し、この救いを実現して下さった神様を礼拝する者、神様と共に生きる者とされます。また、すでに信じているあなたは、この大いなる救いをいただいた者として神様を礼拝することはもちろん、この救いを知らない世の人々に宣べ伝え、執り成し祈っていくのです。それが、イエス様という尊い犠牲によって罪が赦され、神様の恵みによって神のものとされたキリスト者の役割りなのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スカシユリ、リンドウ、トルコキキョウ、ブルーベリーです。