「恵みの神に導かれて」エペソ人への手紙 2章11~22節 金田洋介牧師
聖書が語る「恵み」とは、「受ける資格のない者に与えられる神様の驚くべき祝福」あるいは「神様からの身に余るほどの良き取り計らい」とも表現できます。熊本真愛教会が設立されて40年周年を迎えました。恵みの神様に導かれ今日在ることを感謝しつつ、イエス様を通して与えられた神様の恵みをエペソ書から学びましょう。
Ⅰ.キリストにあって神様に近い者とされた
エペソ教会に集う人々のかつての姿は、「この世にあって望みもなく、神もない者たち(12節)」でした。ところが、キリストの血によって「神様に近い者」にされたとパウロは語ります。それはすなわち、神様と正しい関係が結ばれたということです。それは「私の人生に神様は必要ありません。」と言っていた者が「私の人生は、神様なしに成り立ちません。神様こそ私の全てです。」と言う者へと変化したということです。自己中心に生きる人生から、神中心に生きる人生へと変えられたのです。そして、それは「キリストの血」、すなわち「イエス様がご自身の命を犠牲にしてくださったことによって」起こったのです。それはまさしく、神様の恵みによるもの、「受ける資格のない者に与えられる神様の驚くべき祝福」でした。神様の素晴らしい恵みによって、エペソの人々に、さらに素晴らしいことが起こります。
Ⅱ.キリストにあって一つとされた
続いてパウロは、互いに敵意を持って拒絶し合っていたユダヤ人と異邦人とがキリストにあって一つにされたと教えました。彼らは互いに敵意を持って拒絶し合っていたましたが、同じ神様を信じ、同じ神様と共に生きる者、同じ神様を信じる信仰を持つ者として一つとされたのです。この「一つとされた」とは、互いに愛し合う愛。愛による一致が生まれたということです。ですから、イエス様によって一つとされたお互いの間に、もはや敵意はありません。それどころか、敵意の代わりにイエス様で愛し合う「神の家族」という新しい関係が生まれたのです。これも神様の素晴らしい恵みです。「神様からの身に余るほどの良き取り計らい」によって、エペソの人々の間に「神の家族としての集まり」、すなわちイエス様を中心とする「教会」が生み出されたのです。
教会は、イエス様を信じる信仰によって救われた人たちの集まりです。熊本真愛教会は、恵みの神様に導かれ、イエス様を信じて救いに与った方々によって築き上げられ、私たち一人一人の今があるのです。真愛教会の40年の歩み、私たちそれぞれの歩みの守りと祝福を、神様に感謝し、これからも神様を礼拝し続けましょう。そして、神様の恵みを携え、全世界に出て行って、イエス様を通して与えられた恵みを宣べ伝えようではありませんか。