2023年1月15日 主日礼拝メッセージ

「憐み深い神の御手に引かれて」ネヘミヤ記 9章1~3節,6~21節  金田洋介牧師 

 

前回、神様の御言葉に従って仮庵の祭を行ったイスラエルの民。その祭りの二日後のことです。民はみな集まって断食をし、粗布を着て、土をかぶりました。民は神様の前の在り方(生き方、日々の過ごし方)を立て直すために集まり、悔い改めたのです。彼らは昼間の半分(約6時間)を神様の律法を朗読する(聴く)時、神様に告白する時(罪や感謝の告白)、神様を礼拝する時としてささげたのです。すると、次第に民の心が神様の前に開かれていきます。今日、私たちも神様を礼拝しています。これからも、毎週の礼拝を真心からささげていく時、神様は私たちの心を開いて下さいます。時には優しく、時に堅い岩を砕くように、神様の言葉が迫ってくることを体験するのです。しっかり神様に心を向けるお互いでありたいのです。

5節後半以降、エズラは(口語訳に明記)神様によって天地創造がなされてから、今日に至るまでの長い歴史を振り返りながら、神様の憐みと自分たちイスラエルの民の背きの歴史を告白しています。天地創造の神様への賛美(5b~6節)、アブラハムの選びと祝福の約束(7~8節)、エジプトからの救出(9~11節)、神様の律法の付与と荒野における神様の養いと導き(12~15節)、荒野で犯した罪の告白(16~17節前半)、神様の憐れみへの感謝(17節後半~21節)、カナンの地での生活からバビロン捕囚(22~31節)、捕囚からの帰還~現在(32~37節)。37節まで読むとより分かるのですが、イスラエルの民の歴史は神様への反抗(背き)の歴史でした。どれほどイスラエルの民が神様に背いてきたか、私たちはこれまでの学びを通して知っています。神様の御力をあらゆるところで体験してきたにもかかわらず、簡単に神様以外の神々を信じ求める姿。神様の御言葉に背き、従わない姿。困難に遭うと一生懸命になって神様に助けを求めますが、解決すると手のひらを返すように態度を変える姿。そんな姿ばかりでした。それと共に、どれほど神様が憐み深いお方であるかも学んできました。ここでエズラが代表して告白していますように、背き続けたにもかかわらず、神様は民を見捨てず、憐れんで下さったのです。

しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。(9:31)

イスラエルの民の歴史は、神様の憐みなしでは語れません。民は憐み深い神様の御手に引かれて歩んで行ったのです。これは今を生きる私たちにとっての望みです。この憐み深い神様が私たちの神様であり、私たちの人生はこの神様の御手に握られ、導かれているのです。新聖歌474「主が私の手を」の賛美にあるように、憐み深い神様があなたの手をとって、その人生を、信仰生涯の旅路を共に歩んで下さいます。神様はいつまでも変わらずあなたを愛し、必要ならば思いと行動を直し整え、導いて下さるのです。何という幸いでしょうか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、金魚草、ブルーベリー(枝)、スターチス、トルコキキョウです。