2023年2月5日 主日礼拝メッセージ

「キリストの後に従って」ルカの福音書 9章21~23節  金田洋介牧師 

 

これからイエス様が自分の身に起ることを弟子たちに伝えるとても大切な場面です。イエス様は「人の子(イエス様)が、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」ことこそが、神様のご計画だというのです。その上で弟子たち言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と。この言葉は、今日イエス様の弟子とされている私たち対する言葉でもあります。今回は「自分を捨てる」「自分の十字架」二つの言葉に注目したいと思います。

①「自分を捨てる」とは、自分は自分のものではなく、神様のものであると信じ、認めること。聖書は、私たちが代価を払って買い取られた存在であると教えています(Ⅰコリ6:20)。代価とはイエス様の命を指します。イエス様の尊い命を犠牲にして、私たちはサタンの支配、罪と死の支配から救われ、神の子とされたのです。ですから、神様のものであることを自覚し、神様中心に生きる者でありたいのです。

②「自分の十字架」についてですが、イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりの十字架、私たちを罪から救うための神様の裁きとして、予め神様が定められたご計画、御心でした。ですから、イエス様にとっての「自分の十字架」とは、神様のご計画に従い、私たちの罪の身代わりとして裁かれ、死ぬということだったのです。

では、現代を生きる私たちにとって、「自分の十字架」とは何を意味するのでしょうか。それは、神様がお示し下さった御心です。イエス様は私たちのために十字架を背負われました。それが神様の御心だったからです。ですから、イエス様の弟子である私たちも、神様の御心に従って生きる者でありたいのです。「自分の十字架」という名の「神様の御心、神様のご計画、神様からの使命」に、自ら進んで従って生きるのです。では、神様のご計画、御心はどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、御言葉によって、また、祈り求めることによって知ることができます。むしろ、御言葉を読み、祈ることこそ、自分が負うべき十字架であることに気づくのです。誰かのためにとりなし祈り、御言葉を実行する。隣り人になって寄り添い仕える。献げる。平和をつくることに努める。社会のルールに従って生きる。私たちが当たり前のようにしていることの中に神様のご計画(御心)があるのです。

自分を捨て、自分の十字架を負う歩みは、決して容易なことではありませんが、私たちの助け主であるイエス様が私たちと共に歩んでくださり、導いてくださいます。「神様、私が負うべき自分の十字架は何でしょうか?」まず、素直に祈り求めてはいかがでしょうか。御言葉に耳を傾け、祈り求め、神様に心を向けていく時、必ず、負うべき自分の十字架が示されるはずです。自分を捨て、日々自分の十字架を負って、イエス様の後に従って参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ストック、スターチスです。