息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ福音書15:21)
この話に出て来る放蕩息子とは、つまり我々人間の事です。父親は、つまり神様の事です。この話は、我々人間が、神様のもとを離れ、自分勝手に暮らしていたところ、とんでもない災難に陥ってしまっているので、神様の放蕩息子である人間は、悔い改めて父親、つまり神様のもとへ帰って来なさい、というのがおおまかなところです。
放蕩息子は、自分の意志で堕落してしまいました。放蕩息子は、父親に守られ、何不自由なく暮らしていたのに、その環境に窮屈さを覚えて、父親に財産をねだって、自由気侭に暮らしたところ、一文無しになってしまいました。この、神と共にある生活から離れてしまうのが、人間の最大の罪です。創世記にある、アダムとエヴァの堕落と、正に同じです。人類は、その始まりから、自分で神に背いた放蕩息子であるのです。
息子は一文無しになり、家にたどり着く前に父親へのお詫びの文句を考えていました。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の1人にしてください」と言おうと思ったのです。が、実際に息子が父親に言った言葉は「もう息子と呼ばれる資格はありません」で終っています。息子のお詫びの言葉が終る前に、もう父親は放蕩息子を赦し、綺麗な洋服を着せ、ごちそうを作って宴会を始めたというのです。そのように、神様は私たちが本当に悔い改めたならば、もうその瞬間に赦してくださるお方であるのです。
ところで、世の中に喜びというのは大きく分けて3種類あります。1つは動物的な喜びで、これは本能を満たす事です。食欲や睡眠欲を満たせば、確かに満足です。しかしこういう動物的な欲求は、時間が来ればまた同じ様に起こって来るものであり、きりがありません。本当の人間らしい幸せを求めるならば、動物的な喜びだけでははなはだ不十分です。
2つ目は人間的な喜びです。知識を得るとか、友人と交わるとか、仕事に打ち込むとか、趣味に没頭するとか、これらは動物的な喜びよりは、幾分高級で、人間ならではです。世の中一般の人なら、ここまでで満足でしょう。しかし人間的な喜びも、永遠には続きません。お金も、地位も、健康も、友人も、そのうち失うものです。人間的な喜びにのみ生き甲斐を求めていると、失った時にどうにもならなくなります。放蕩息子も、たくさんのお金を湯水のように使って贅沢三昧に過ごしましたが、飢饉が襲って来て、そんな人間的な幸せは、すぐに吹っ飛んでしまったではありませんか。
そして最後にして最大であるのが、神の子としての喜びです。神様から離れていた生活を悔い改め、神様の元へ帰って来ると、そこでは神様と天の使いが大喜びで迎えてくださります。永遠の命を約束され、神と共にあり、神と交わる日々こそが、いつまでも絶える事のない、真の喜び、最も高級な喜びであります。この神の子の喜びを味わうために、悔い改めて父なる神様のもとへ帰って来なさいというのが、このたとえ話が教えているところです。