すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともない。(マタイ福音書7:17-18)
今日の聖句にある悪い実とは何か。それは、悪い行いですとか言葉の事です。良い実とは何か。その反対に、良い行いとか言葉の事です。悪い木とか良い木というのは、言うまでもなく、悪い人間、あるいは良い人間の事です。つまり、良い行いが良い人間を作るのではなく、良い人間が良い行いをする。逆に、悪い行いが悪い人間を作るのではなく、悪い人間が悪い行いをするのである。体を壊したから病気になるのではなく、病気のために体が悪くなる。そういう事です。
そう言われてみれば、「何だそんな事か」と思われるかも知れません。しかし、実はこの順番を勘違いしている人が、はなはだ多いのであります。良い行い、真面目なふるまいが、その人を正しくするのではありません。そうではなく、正しい人間が、良い行い、真面目なふるまいをするのです。そこの順番を間違えていると、どこかの新興宗教みたいに「救われるためには、あれをしなさい、これをしてはいけません」と戒律だらけでがんじがらめにしたり、救われるためには寄付金が必要、などと言い出したりするのです。
これは、足を骨折してまともに歩けない人に対して、「その歩き方はいけません。正しい姿勢で歩きなさい」というような物で、本末転倒もはなはだしいと言えましょう。骨折した人は確かに正しい歩き方では歩けませんが、そういう人に必要なのは、手術なり松葉杖なりギプスなりで、骨折の治療をする事であり、歩き方を正しくする事ではありません。骨折自体を治療すれば、自然と歩き方も治っていくものです。
つまり、行いを治そうとするのではなく、人間を治そうとするのが正しいやり方であるのです。真面目な人が教会に行くのではなく、正しい生き方を求める人が教会に行くのです。正しい人になったから洗礼を受けるのではなく、正しい人になりたい人が洗礼を受けるのです。
では、その「人間治療」は我々人間にはできるでしょうか。聖書は、それは人間にはできない事だ、と書いています。どうすればできるのか。聖書は「それは信仰によって与えられることだ」と書いています。信仰によって、実ではなく、木が変えられていくのです。木が良くなったのであれば、その結果良い実がなるに違いありません。木が変わっていないのに、いくら正しい実を求めても、無駄な事です。
ですから、私たちは実ではなく木が悪くなっている事に目を向けねばなりません。病気を治せるのが医者だけであるように、私たちの悪い木を良い木に変える事ができるのは、神様だけです。そして、自分の病気を認めず、治す気がない患者は、医者もどうしようもないように、自分が罪人である事を認めず、神様の前に悔い改める気がない人は、その場限りの良い行いをしても、無駄であると、今日の聖句はそのような事を教えてくれるのです。