見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3:20)
聖書の最後の書物である「ヨハネの黙示録」は、訳の分からない記述が多く、初めて読んだ時は「これは四次元の物語なのか?」とすら思えたものですが、この聖句は印象に残っています。初めて小月教会へ来た時、説教のテキストはここではなかったですが、黙示録のこの箇所も読まれたので、覚えてるんですよ。
ここでいう「わたし」とは、言うまでもなくイエス・キリストの事であるのですが、「おやっ?」と思った点があります。「わたしはあなたの声を聞いたら戸を開ける。あなたが中に入ると、あなたと共に食事をするであろう」とは書いていないのです。我々がキリストのもとへ行き、扉を叩けば入れてもらえる、ではないのです。そうではなく、キリストが我々の心の扉を叩き、我々が心の戸を開くと、キリストが我々の心の中に入り、共に食事をする、と書いています。驚く事に、キリストではなく我々が主体になっているのです。
これは、いわゆる日本的な宗教観からすると、異質に感じられるのではないかと思います。苦行とか、修行とか、善行を積むとかして、我々の側から何とかして神の側、あるいは神的な存在に近づこうと努力するというのが、日本的な宗教です。ところが、キリストは「わたしがあなたの心の扉を叩く」と言われているのです。キリスト自ら我らに呼びかけてくださるのです。
ですから、聖書の神、救い主キリストは、決してどこか遠くから我々を見張っている神ではなく、我々と共にいます神であり、我々の努力で神に近づくのではなく、神が我々に近づき、呼びかけてくださる。また、人間を十把一絡げに扱うのではなく、我々一人一人と個人的に関わってくださる。それが聖書の「インマヌエル」(「神が共にいます」という意味)の神なのです。我々に必要な事は、ただ心の扉を開いてキリストをお迎えする事だけ。そしてそれこそが「悔い改める」という事です。
新約聖書ヨハネの手紙一4:10では、これと同じ様な事を言っています。曰く「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
我々がキリストを求めるのではなく、キリストが我々のもとに来て戸を叩いておられる。我々は「キリストのところへ行かなければならない」のではありません。「扉を開いて、キリストをお迎えする自由が与えられている」のです。そしてそのお方は、我々を全ての罪から救う力を持っています。これほど尊い愛は他にないと言わねばなりません。