日本基督教団小月教会

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマの信徒への手紙5:3-4)

ローマの信徒への手紙の著者は、使徒パウロです。彼は、最初キリスト教徒を激しく迫害する者でしたが、後に熱心な伝道者に変えられました。パウロの書いた手紙の中でも、この聖句は特に有名なものでしょう。

この聖句を文字通りに読めば、「辛い事があっても、耐え忍んでいれば希望が見えて来る」と読めます。日本人的な「忍耐」は、「黙って耐え忍ぶ」ととらえられがちです。つまり「苦難があっても、頭を抱えて苦難が過ぎるのを待て」と思われるかも知れません。「耐えていれば希望がわいてくる」と。それも間違いではないでしょう。しかし「苦難があっても無理して立ち向かわず黙っていろ」では、あまりに消極的過ぎます。私はこの聖句にはもっと深い意味があると思います。その鍵は「忍耐」という言葉にあると思うのです。

ローマの信徒への手紙は(というより新約聖書全体は)ギリシャ語で書かれており、ここで使われている「忍耐」は、「ヒュポモネー」という言葉です。この言葉は、ただ黙って耐えるという意味よりも、もっと強い意味を持っています。どんな苦難にあろうとも、心の奥底に強い希望を持ち、雄々しく苦難に立ち向かう。それが「ヒュポモネー」という言葉に込められているそうなのです。

つまり、希望はだまって耐えていればわいてくるようなものではないのです。苦難にあっても自ら希望を強く持ち、苦難に立ち向かう者にこそ、神は苦難を耐え忍ばせてくださり、ついには希望が勝利する。パウロの人生こそが、まさに苦難の連続でしたが、彼は恐らく心に強い希望を持って苦難に立ち向かったからこそ、この言葉を書き遺したのではないでしょうか。

では、どうすれば苦難にあっても希望を持って立ち向かえるのでしょうか。苦難にあっても希望を持てる源泉。それが信仰であると思うのです。多くの新興宗教は「信じればご利益や奇跡が起こる、苦難が来ない」と言います。が、キリスト教はそんなことは教えません。信じれば苦難が来ないなどとは聖書には書いていないのです。「岩の上に土台を置いて家を建てた人は、洪水になっても揺り動かされない」(ルカ福音書6:48)と書いてある通りです。この土台こそが信仰であり、信仰を持つ者は、洪水(苦難)にあっても決して揺り動かされず、希望を失わないのです。

たとえキリストを信じていても、苦難は次々に襲いかかります。もちろん、信じていない人とて同じです。しかし、信ずる者は信じない者と何が違うか。それが信仰に強く立つ希望の有無です。希望なき忍耐はただ辛いだけですが、希望があればそれは喜びですらあるのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達が希望を生む事を、私たちは知っているからです。希望あれば忍耐あり、忍耐あれば希望あり。これらは一方通行ではなく、輪のようになっているのではないでしょうか。そして希望を失うと、その輪も途切れるのです。

日本的な「忍ぶ」という言葉ももちろん美しいものです。しかし、「ヒュポモネー」という言葉の強い意味に目を向けた時、この聖句の持つ力強さが改めて感じられる気がします。



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