イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ福音書8:10-11)
有名な箇所です。姦通の女をファリサイ派が引き立てて来て、石打ちにすべきかどうかキリストに問う場面ですね。ファリサイ人たちは「この婦人をどうしたらいいか」ときいてきましたが、これはイエスを陥れるための罠でした。イエスが「その女を殺してはならない」と言えば、「あなたはモーセの律法を無視するのか」と、イエスを捕まえる口実ができますし、「その女を殺せ」と言えば、「じゃああなたの教えている愛の教えは、一体何なんだ」と、イエスに従う人たちや弟子達は、失望して去って行く事でしょう。
そこでキリストは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられました。罪と言っても、泥棒とか人殺しをして警察に捕まった事があるという意味では、もちろんありません。聖書には「兄弟に向かって『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ福音書5章)とあります。これでは私たちはみんな罪人になってしまいます。聖書の厳しい基準に照らせば、罪を犯したことがない人など、一人もいなくなってしまうのです。
「罪を犯したことのない人が、まず石を投げなさい」と言われ、石を投げる者は誰もいませんでした。その通り、人間は誰しも罪を持っています。ですから、人間は他人に石を投げる事ができませんし、投げてはならないのです。では、誰が石を投げるのか。それは、神です。「神は愛である」とは、聖書にも書いてある言葉ですが、神は同時に完全な正義であり、どんな小さな罪もお見逃しになりません。罪深き人間が石を手に取らずに去っても、神は罪人を罰すべく、厳然としてそこに立っておられるのです。「罪を犯したことのない人がまず石を投げなさい」に続いて、「罪を犯したことのある人は、真ん中に立ちなさい」と言われても、文句が言えないのです。
問題の女性はイエスに「私もあなたを罪に定めない」と言われました。これは「今回は大目に見てあげる」とか、「こっそり罪を見逃してあげる」などという意味では、ありません。そうではなく、「あなたが受けるはずだった石は、私が代わりに受けよう」という覚悟で、「私もあなたを罪に定めない」と言われたのです。罪深き人間の隣には、罪人を守るために神の子が立っておられるのです。そして、神が罪を憎み、人間を罰しようとするその石を代わりに受ける覚悟で、「あなたを罪に定めない」と言ってくださるのです。これぞ、十字架の愛であります。
聖書は、まず「人間はそもそも罪深い存在である」と教えています。そして、ただそれだけだったら、人間には何の救いもありません。しかし、ありがたい事に神様は、人間を罪深い、情けない状態に放っては置かれません。神の子イエスが自ら私たちの傍らに立ち、「あなたを罪に定めない」と言われるのです。それこそが、十字架の主を信仰する我々に与えられた、最上の特権です。